もう何年も人間のフリをしながら生きている
「自分には人間の生活というものが見当つかないのです。」
太宰治の人間失格の冒頭にある一文だが、ある日、この一文が自分にしっくりくるようになった。
それは、色とりどりのペットボトルのキャップが一人暮らしのわたしの部屋を埋め尽くした時だった。
人1人、それは大量なゴミを生み出すには十分な存在らしかった。一人暮らしを始めて一応やかんとお茶ポットは買ったけれど湯を沸かして茶を作るなどという芸当は私には到底わたしには無理だった。そうなるとどうなるか。大量のペットボトル飲料を買った。
するとなんだ、溜まる溜まる。ペットボトルの山だ。溜まる前に、ペットボトルの回収の日に合わせてまとめてゴミに出せばよかったのだけれど、わたしは決まったゴミの日にゴミを出すということも出来なかった。もうお気づきであろうが、私は部屋の片付けをすることが出来ない。
結果わたしの部屋にはペットボトルが至る所に溜まるのだった。冷蔵庫の上。レンジの上。ゴミ箱の蓋の上。ついには日頃使うテーブルの上にまでペットボトルの侵食が及んだ時、私はペットボトルを片そうと思うのだった。
片付けられないゴミ女の私だが、分別はするタイプのゴミ女だ。
ラベルとキャップを外し、それぞれを別の袋へ入れていく。しかし単純作業を続けていくうちにわたしは悲しい気分になる。
21世紀・・・まだこんなことをしているのかと。
小さな板で世界中の人とつながることの出来るこの時代に、
なにをわたしはこんな小さな部屋でペットボトルのラベルとキャップを外し続けているのかと。
馬鹿らしくなってキャップを地面に叩きつけたら勢い余って袋に入れていた、キャップも音を立てて全て転がった。
部屋一面のキャップを見て、「わたしは人間の生活に向いてないんだろうな」と思った。
規則正しく、色々なことをすることはすごい。
お風呂にちゃんと毎日入ること。これもすごい。
わたしは風呂には魔人がいると思っている。
魔人はずーっと入っているとぼーっとさせてくる。そして、今後の不安とか嫌なこととか考えたくないことを耳元で囁いて、わたしを湯船の中にズブズブ引きずり込もうとしてくる。
“のぼせている”という一言でも済むのかもしれないけれど、私は魔人がいるのだと考えている。
ペットボトルは決められた日に出す。
お風呂に毎日入る。
決められた時間に仕事に行く。
寂しくなっても誰かに依存したりせず、ちゃんと1人でなんとかする。
そんな人間の生活が、
わたしには見当がつかない。
だから私は、人間の“フリ”をすることにした。
友人や職場の人間は、私のことを人間だと思っているが、実は私は人間ではない。
足は5本あるし、目は三つある。頭から2本触覚も出せる。
私は人間ではないので、人間が当たり前と思って日々していることは、私にとっては当たり前ではない。
当たり前じゃないことを、やったらどうするかって?
一つ一つ褒めてあげるのだ。
私は今日夕ご飯を作って偉かったし、お風呂にちゃんと入って偉かった。
人間のふりをしているので、仕事にはちゃんと化粧をしていくし、お風呂あがりにはいい匂いのするクリームをつける。いいにおいがして、爪がちゃんと綺麗に整っている私は、当たり前じゃないことをたくさん出来ているすごい子だ。
初対面の相手には気の強い人間のフリをする。
声は大きくて、ハッキリと物怖じせずに言葉を発する。
なんとなく気の強い人間のフリをしておいたほうが、自分の弱さを隠すことが出来るような気がするので、そういう人間のお面を被る。
辛い時にも、気の強い人間のフリをする。「こんなのは全然わたしにとって、なんの影響も持たない」と、たまに強がったり無理したりもしながら、ピンチを乗り切る。
家に帰って、自分の部屋に戻り淡麗グリーンラベルを片手にスマホをいじる。もう人間のフリをする必要は無いと思うと気が緩んで触覚が出る。
別に辛いことがあった訳じゃないし、傷ついているわけでもない。疲れているわけでもない。そう思っているのに、スマホをたどる指は、頼りたい相手の名前を探す。
お酒は飲みたいし、人には頼って生きていきたい。
私は人間じゃないから、仕方がないのだ。
これは疲れているわけでも病んでるわけでもなくて、日常を自分なりに生きやすくする技である。
人間のふりをしているわたしが人間になるためのリハビリ。
そんな日々をわたしは「リハビリ人生」と呼んでいる。