リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

全てを憎んでる人の話

その人はこの世のすべてを憎んでるかのような顔をしていた。

「語り始めたらね、不満が止まんないんですよ」


その本屋はジリジリと暑かった。細い道を入っていったところにある、病院を改装して作られた古本屋。看板は一見看板だと気づくことはできないし、平日は23時~27時のド深夜にしか営業していない。まるで誰にも入ってほしくないみたいだ。
置いてある本はてんでバラバラで、最近入荷した話題の本もあれば、光ったりベッドが回転したりする昭和のラブホの写真集だったり、モザイクという概念がなさそうな昭和のポルノ雑誌とか、調律のあってないギターとか置いてあったりする。

なんだか色々いい加減だ、と思う反面、案外それが心地よかったりする。
ざっくばらんとしているようで、どこか一貫性がある、独特な雰囲気をもつその店が私は好きだった。

その日は学生時代の男友達と、その本屋がある小さな町に来ていた。メインイベントは、その町の一つの寺にある鳩の餌を買い鳩と戯れて仕事などの日頃の鬱憤を晴らすことだった。正直くそ暑いのに外で鳥とわざわざ触れ合うとか勘弁してくれと内心思っていたが、あまりにもそいつが、目を輝かせながら「鳩って・・・かわいいぞ」とか言うもんだから、ちょっと気になって誘いに乗らざるを得ない。
そしてお目当ての寺に行く道中、件の本屋の看板を見つけ久しぶりに行ってみたくなり(というかすでに暑かったので休憩がしたく)、その友人も本をそれなりに読むタイプだったので入った。



おやすみプンプンなんてねえ・・・読まない方がいいですよ」


それが店長が私たちに話しかけてきた言葉だった。
私たちが、レジの近くにある棚に置いてある浅野いにおの「おやすみプンプン」全13巻セットの話をしていたときだった。

おやすみプンプンは、ヒヨコの姿で描かれた少年プンプンが小学生から大人になるまでの人生の波乱や、感情の激動を描いた作品である。
出だしの世界観などがシュールで(小学校で物語の本筋に関係ないところで校長と教頭が奇声をあげながらかくれんぼをしていたりする)、そこについていけなかったり、プンプンの鬱々とした感情の表現が過剰に重々しかったりする。

店長はよりによって私が友人に「おやすみプンプンあるやん。めっちゃ面白いよこれ」と話していた時に、「読まない方がいい」と釘を刺してきた。
店長と話すのはこれが初めてだったし、いきなりそんなことを言うもんだから思わず笑ってしまいながら「どうしてですか」と私は聞いた。


「めんどくさいんですよ、プンプンは。こいつは一の感情伝えるのに原稿用紙何枚分も使わないと言い表せないんですよ。一つのことにくよくよくよと。あとこいつ本当に頭のおかしいやばいやつみたいに描かれてるけど、結局はめちゃくちゃ平凡などこにでもいる奴なんですよ。そういうしょうもないところも嫌い」

店長はまくしたてるようにプンプンの嫌いなところを言っていった。いつも物静かに座っていたので、そんなに早口でしゃべれるとは思っていなかった。


そして私は、店長が言ったプンプンのいやなところ、それが私のプンプンの好きなところだと感じていた。
学生時代、新刊が出るたび本屋に急いで買いに行った漫画はおやすみプンプンだけだった。私はめんどくさくて重々しく色んなことを深く考えてしまうけど平凡なプンプンのことが好きだった。どこか自分と重ねていた部分もあったのかもしれない。


「ようするにこいつは俺みたいなんすよ。もうそれも含めて嫌い。」


自分と重ねていたという気づきと共に、店長もそれと同じことを言った。


「私は好きなんですけどね、プンプン」

と私が言うと、

おやすみプンプンとか、太宰治の『人間失格』とか好きなんですとか言ってくる女は終わってますからね」

と言い放った。
それまぎれもなく私のことやないか。
プンプンはおろか浅野いにおの作品は全て本棚に揃っていて、太宰治もしっかり集めてる私のことやないか。

ここで怒ったり気を悪くして店を出てもよかったのかもしれない。
「終わっている女」こと私は、その頃には完全に店長のひどい言い草の虜になっていた気がする。
けなされているにも関わらず、面白くて笑いが止まらなくて、私は店長の話をもっと引き出すことにした。


店長は私の質問に何でも答えてくれ、そうしてすぐ分かったのは店長と私が地元が同じということであった。



店長は私の地元兼自分の地元を


「あそこは暴力の街です。」
「センスが終わってるダサくてくだんない奴しかいない。」
「駅前にはブスのキャバ嬢と顔面が終わってるホストがはびこっている」
「俺の同級生もダサくてしょうもない奴しかいない。一生MRワゴンにでも乗ってろ」
「一刻も早く滅びてくれ」


とまくし立てるようにけなした。

自分が生まれ育った地元を100で貶される気分はどうかって?
めちゃめちゃ面白い。
やっぱり私は爆笑せざるを得なかった。

店長は心底地元を憎んでるらしかった。そこからもその文句は尽きることなく延々と喋っていれそうだった。

「この店にくるサブカル女子はなんにも本の価値を分かっていない」
「かわいい〜とか言ってパシャパシャ写真撮ってるお前は何にも可愛くない。たとえ外見は可愛かったとしても、中身がない。スッカスカの人間性。」
「#フィルター越しの私の世界 ってインスタのタグはなんだ。お前のフィルターの先には何にも広がっていない。無。」


店長の文句のテーマが店に来るサブカル女子たちにいったとき、一緒に話を聞いていた友人がしびれをきらして、「よし!!!!わかった!!!!買います!!!!」とおやすみプンプン全巻を店長の前に勢いよく置いた。
「本気っすか?」とジト目で彼を見る店長を横目にわたしは、まだ笑ってるのだった。



店を出て、重い漫画を抱えながら友人は「なんでこれ帰りに買いに来ますって言わなかったんだろ・・・」と後悔をしていた。私たちはジリジリと暑い日差しの中メインイベントの鳩の餌やりをするため、坂の上にある寺を目指していた。もっともな後悔である。


「あの人すげぇ人だったな」

と友人は言った。またそれと同時に「もっとあの人と見合う知識量をもってあの人と話がしたいな」と言った。

店長は色んなことを知っていた。聞くところによると驚くことに私たちと歳は2個くらいしか変わらなかったのだが、文学の知識も物事に対する知識も遥かに上をいっていた。それでいて色んなことを憎んでいた。




わたしは店長が言っていた地元の嫌いな所をぼんやりと思い出していた。

「センスがなくてしょうもなくてダサい奴しかいない街」

店長が言うことは全部その通りだと思った。

でも、わたしはそんなダサい街が好きだった。ずっと、この街で暮らしても構わないと思っているほどに。



店長と同じくらい色んなことを知ったうえでわたしはこの街のことが好きだと言えるだろうか。


嫌いなものが増えるのか、はたまた好きなものが増えるのだろうか。

結局ものはとらえようなのだろうけど、
わたしはたぶん悪口を言っている人が単に好きなんだろうなとも思った。



鳩は餌をあげると死ぬほど人懐こかった。餌があるわたしの手のひらだけでなく、腕にまで乗り、最高で3羽は乗った。正直鳩の面白さを舐めてた。メチャメチャおもしろいじゃん。と笑う私を友人はしたり顔で見ていて若干ムカついた。


楽しかったけど次この街に来る時のメインイベントは、あの店長の次なる悪口を聞くことにしたい。

スタバに見栄を買いに行く女の話

私はスタバに行くのが好きである。


新作が出たらわりとすぐにチェックをしに行くし、スタバで勉強をしたり友達とお話をするのも嫌いではない。

だがしかし、心の底からスタバのなんとかフラペチーノが飲みたいと思って、私はスタバに行っている訳では無い。

私はカフェインが苦手である。
純度の高いコーヒーを飲むと眩暈がして動悸が止まらなくなり吐き気を催していてもたってもいられなくなるくらいカフェインが苦手である。スタバの可愛くデコレーションされたなんとかフラペチーノでさえも全部飲み干すと少しその後気分がすぐれなくなる時がある。

(最近知ったのですが、スタバってカフェインレス頼めるらしいですね!スタバ最高!バンザイ!)

じゃあなぜそこまでしてスタバに行くのか。
バカなのか。そうだ、バカなのである。


私は見栄を買いにスタバに行っている。


「スタバでMacを開いている」というのは、オシャレを気取って仕事をしているように見せかけていると揶揄する代表的なセンテンスであるが、まさにその通りなのだ。

私はスタバでMacが開きたいのだ。

そう私はドヤ顔スタバMacがしたいのだ。



スタバの提供する商品の値段の高い理由を、どこかで聞いた。あれはなんとかフラペチーノの原材料だけじゃなく、スタバのお洒落な雰囲気、接客全てを含んでの値段なのである。

スタバのカップは可愛い。時には店員さんが気持ちを込めたメッセージを書いてくれたりなんかする。店内も店によってこだわりのあるデザインがあり、入った人をウキウキとさせてくれる。

それらよって生まれる効果が、女子を輝かせる演出である。

新品のフラペチーノを持って、友達と自撮りをしてSNSに女子会の投稿をして、「スタバの新品に目がない甘いものが大好きな私with友達」を演出することが出来る。

勉強をしながらスタバの商品を右端に置いて勉強の様子と商品を写真に収めてSNSに投稿して、「勉強もスタバでオシャレにこなすことが出来る私 」を演出することが出来る。

皆、涼しい顔をしてスタバに入りながら、自分を彩るための演出として、スタバを利用しているのではないかと思う。

こんなことばかり言っていると
「ふざけんじゃねぇよスタバ好き舐めんじゃねえよ泥女!!」「一生泥水すすってろ!!!」
とスタバ女子から暴言を吐かれてもいいことを言っている気がするが、私は決して馬鹿にしている訳では無いのだ。


言わせてくれ。

「見栄はり上等じゃん!ドヤ顔でスタバMacしようよ!」って

わたしは人から見られている自分の像を意識しがちな人間である。「こう見られたい」という像は、本物の自分ではなかったりする。
「カッコイイですね!」と後輩に言われたりする。「ねえさん」と周りから称されることがある。私は人より声が大きい方だし、その分周りを仕切ってしまったり、初対面で緊張すると返って強めな物言いをしてしまうことがあり、気が強くてバリバリ仕事をする姉御肌なイメージをもたれることがある。悪い気はしていない。度重なる偏見だが、「姐御肌っすね!」と呼ばれるタイプの人間はおそらく、「姐御肌」と呼ばれることに一種の喜びを覚えていると思う。

本当の私は末っ子基質で、甘えたがりで気も弱いし、引きこもって人に依存しがちな所がある。頭もそんなに良くないし、出来ることなら仕事もしないで延々ふざけたことを言っていたい。

「一人で生きていけそうですね」なんて言われて「なんだそれ」って笑い飛ばして、帰ってもう1度思い返して「なんだそれ」って小さく呟いたりする。

でも、本当は「一人で生きていけそうな強くて姐御肌な自分に憧れている自分」もいたりする。人から言われた印象に勇気づけられて、気を強く持てたりもする。

人から見られた自分と、自分が思う自分、どっちが本当の自分かなんてわかりはしないのだ。

私は偶像の自分自身に助けられているのだ。





スタバMac上等じゃん。
なりたい自分になるために、着飾ったっていいのだ。
重い鎧を。綺麗な仮面を。右手にフラペチーノを。


明日も私はスタバに泥水みたいな見栄を買いに行く。
飲み終わったあとは、気分悪くなってCCレモンをガブ飲みする。

「プハーーーーーー!!!!スッキリした!!!!」

つってね。

奇跡が起きてラジオに出れた話

「主張大会に出てみない?」


中学生の時、先生にそんな提案をされた。
主張大会とは、市の中学生が参加して原稿用紙何枚分かの自由なテーマの主張を各々がステージの上でマイクをもって客席に向かって投げかけるという大会で、うちの市ではわりと始まって間もない大会だった。

「え・・・?わたしがうちの中学代表で出るってこと?」

先生はそうそう、と頷いていた。
〇〇(私です)ならやってくれるだろという期待と信頼のあつい眼差しをわたしにかけまくっていた。

おいおいおい、勘弁してくれ。

と口には出さないがそう思った。



うちの中学は市内でも有数の荒れた中学で道路に向かって生卵が投げられたり、消火器で廊下を真っ白にした挙句その上を不良が自転車で走り抜けていくのを、先生が木刀もって追いかけ回すみたいな学校だった。
ステレオタイプのやばい学校である。


その学校で文芸部かつ図書委員で大人しく生活してるのだからまあそれなりに相対評価は高めだったのだろう。私は前からよく色々なことを先生から頼まれる生徒だった。家が真逆の方向にある不登校の子の家の訪問とかをなぜか頼まれてしていたし。
話したこと無い相手に「はは・・・久しぶり」とプリントを届けさせられるこっちのみにもなってくれ。


で、何度目かのムチャなお願いがこの主張大会だった。


こんなに荒れた中学校で主張大会なんか出てなんの業績を残そうって言うんだよ。と思いつつ、私はなんやかんや了承していた。流されやすいし、断れない少女である。

先生と主張のテーマを決めることになったが、私は主張したいことのテーマが何も思いつかなかった。
強いて言うなら好きだったTOKIO国分太一が中二で初彼女を作ったというエピソードを知っていたため、その時の私は「一刻も早く彼氏をつくって処女を捨てなければ」というなぞの強迫概念で頭がいっぱいだった。
べつにお前が処女を捨てようが捨てまいが太一くんには関係がない。

大観衆の前で「国分太一くんと同い年で初恋人が作りたいです!!!」
とマイクの前で主張したら私の中学のヤバさをさらに裏付けることにしかならないので、私の心の中の主張は心の中にしまい、主張のテーマは「挨拶の大切さ」に決まった。
なんだそれ。


その日から私は挨拶の大切さを裏付けるために、近所の人に会うと挨拶をするようになった。
「おはようございます!」
自分の脳内では、爽やかな少女が明るい笑顔で元気よく挨拶をしていた。
「ぉはょうございますぅ・・・」
実際には、幸の薄さが全面に出た顔の少女がぎこちない笑顔で恥ずかしそうに挨拶をしている。
誰か無理すんなと言ってやってほしい。

人間関係は鏡のようであると言うが、挨拶もそうであった。
気持ちの良い挨拶をすれば気持ちの良い挨拶が返ってくるし、気持ちの悪い挨拶をすれば気持ちの悪い挨拶が返ってくるか、無視をされる。

私が自分のことを「やべぇ奴だ」と思っていれば、向こうももれなく「やべぇ奴が挨拶してきた」と思うのだ。当たり前だ。


そんなことに気づきつつも、恥ずかしさが抜けないまま挨拶を続け、結局心の底から気持ちの良い挨拶は出来ないまま、主張大会の日にちは迫っていった。




そして主張大会当日。

私は元々大きな声を出せる体質だった。
腹から声を出そうとしなくともそれなりに大きい声は出せるのである。
なので、練習中も大きな声を出すことに対しては、誰からの指摘も受けることなく、そのままの調子でやれとだけ言われていた。

当日に強いのか、その日は練習よりも伸び伸びと声を出すことができ、抑揚も自然に作れていた。

「わたしはこれからも挨拶で人を元気にしたり、自分も元気をもらおうと思います!」

そんなことを私は笑顔で言い放って、主張は終わった。
明らかに調子が良かった。




結果的に、
30校ほど参加していたその大会で、
結局私は銅賞を取ってしまった。





(チョッロ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜)




あまりの呆気なさに私はそんなことを思っていた。
性格が悪い
確かに校長や教頭の前で何度も練習をしたり、努力もしたが、努力すれば結果が出るという事実になんだか妙に呆気なさを感じてしまったのだ。




銅賞から上の賞を取った人たちはその後色々なイベントに呼ばれた。隣の市まで表彰式に行ってもう1回主張をしたり、高そうなホテルで発表会をしてめちゃめちゃ旨いカツカレーを食べたりした。自分の能力にそぐわぬ目まぐるしい展開に圧倒され、私はカツカレーが美味しかったことしか、覚えていない。


そして、さらに信じられない出来事が起きた。



地元局のラジオ番組に数分出演することになったのだ。




私は“ラジオ”というものがとても好きだった。スイッチを押すと、夜中でも昼間でも誰かの声が流れてくるということがすごく画期的なことに思えた。好きな番組はカセットテープに録音し、好きなタイミングにテープが伸びるまで何度も何度も聞いたりしていた。

今でもネットラジオを死ぬほど聞いている。
私にとって“ラジオ”というのは今でも少し特別なものなのだ。



そんなラジオに出ることになってしまった。



番組自体は聞いたことがなかったが、その局のラジオ番組はたまに聞くこともあった。
部屋に入ると、数本のマイクが机の上から伸びていた。そして、わたしにそのマイクが向けられた。


「こんにちは」


声は震えなかったけど、震えていたような気がした。

その後少し喋って、主張の内容も要約して話したりした。

気の利いたことも喋れなかったし(誰も中学生にそんなことは求めていない)、本番のような抑揚もうまくつけられなかった。


「これからも挨拶をしていきたいです。」



主張大会当日より何倍も緊張した時間は、あっという間に過ぎていった。






何日か後にラジオが放送されるのを聞いた。カセットの録音ボタンは押さなかった。

ラジオの中で私はとても自信がなさそうに、自分の主張をしていた。
私の声はこんなふうに人に聞こえるのか、となんだか恥ずかしくなった。



銅賞を取った時、なんだか呆気なく思ってしまったのは、私が挨拶の大切さのことなんか別に主張したくなかったからだと思う。

数日間なんとなく挨拶をして、大会が終わってからはそこまで挨拶なんてしていなかった。
挨拶の大切さを心の底からのうたう少女など、そこには存在していなかったのである。


私は主張大会で適当なでまかせを声に乗せて客席に届けていただけだった。
私は自分が、思ってもいないようなことを爽やかな顔でスラスラと口に出せる人間なのだと、分かった。

ただ、大好きなラジオでは嘘が付けなかったらしい。
私は自分がどんな場所でも器用に嘘がつける人間ではないのだと、分かった。






悪いことが起きた時しか開かれない、中学校の全校集会で、私の名前が呼ばれ拍手をされた。皆「なんだそれ?」という顔をしていたし、その後の2階の渡り廊下から来客用のスリッパを誰かが大量にぶん投げたという学年主任からの報告で、その絵面を想像した生徒から思わず笑いが起こり、「笑ってる場合か!!」との生徒指導からの一喝で体育館は静まり返っていた。
当然だが、私の主張大会の話など誰の記憶にも残らなかった。



それでよい。
この学校はそれでよいのだ。

それに、あんな恥ずかしい主張はもう誰の前でもしたくはない。




万が一何かのラジオに出る機会が今後の人生にあったら、心の底からの主張を声に乗せて放ちたい。



「太一くんが結婚した年齢までには結婚してぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」



おわり。

悪口という名の処方箋

今日はまたコンパニオンをしていた時のお話だ。


コンパニオンにめちゃめちゃ口の悪い先輩がいた。Kさんとする。


コンパニオンは宴会が始まる1時間前に事務所に来て控え室で着替えたり化粧したり身支度を整えて30分前にミーティングを済ませて旅館にバスで運ばれる。
初めた当初控え室で会話のできるような友達もそこまでいなかったので私は30分間控え室という空間で過ごすのがめちゃめちゃに嫌だった。女同士の会話がすっげー怖いからだ。

「えっ!ポーチ変えた?どこの化粧品使ってんの?」とか聞かれたら終わった・・・って思っちゃう。ブランドやら何やらになんのこだわりも持ってないから、金銭感覚が狂ってるあんたらより、金がなぜか飛ぶ勢いでなくなっていく庶民派の私は安いもんしか持てないし、ブランドを答えて「へ〜〜〜」みたいな反応されるのがめちゃめちゃ傷つくからもう頼むから放っといてくれと思う。


まあ後々、向こうは交流を持とうと話の糸口を探してるだけのただのいい子たちということに気付くけど、とにかくめっちゃこわいから、最初の方は化粧も家でフルメイクにして、控え室で30分間ひたすらTwitterばっか見てた。そんなビクビクしていた私をもっとビクビクさせていたのがKさんだった。

「男っていうのは少しの毛もあったらダメなのよ!!!願わくばツルッツルがいいの!!!ツルッツルが!!」

控え室に響き渡る1番でかい声で男性の毛について熱く語るのがKさんである。

「スネ毛も出来るだけ生えていてほしくない!!ヒゲも生やすな汚い!!ケツ毛と胸毛に至ってはマジで死んでくれと思う!!」

男性に対してアレコレ注文があるようなのだ。コンパニオンで溜まったストレスをKさんは吐き出すかのようにめちゃめちゃに客の悪口、男性の悪口を言いまくる。

Kさんはすごい美人というわけではないし、どちらかと言えばファニーな顔つきをしている方だと思う。(私も分類すればもちろんファニーな顔つきをしている)
正直もう「お前もブスじゃねえかよそこまで図々しく客の悪口言うなら鏡見てからもの言ってくれ」と心の中で思いまくっていたのだが、それを口に出すとKさんと同じになるので言わなかった。(ブログで特定の人物を指してブスとか書いてる時点で人間性は大体同じ)


最初はKさんのことが嫌でしょうがなかったのだけども、Kさんがチーフの席に一緒に入る機会があり、盛り上げ上手で女の子の面倒を見るのが上手いKさんを見て、「ちゃんと仕事が出来る人だな」と思った。
Kさんのことを認めることが出来るようになると、Kさんの悪口も好きになってきた。


Kさんは旅館に行くまでの送迎車の中でいつも、「水商売に来る客なんて全員ゴミクズの掃き溜め」と言い放っていた。その最底辺のゴミクズに媚を売ってお金を貰ってる私達はなんなんだろうとも思ったけど、私はそれを聞く度に爆笑せざるを得なかった。


「エステに何回も何回も行ってる女は、自分で綺麗になる努力もせず金に物言わせて他力本願でどうにかしようとしてるから、みんなドブス」って言ってて、自分もめちゃめちゃエステ行ってるくせに、達観しててめちゃめちゃカッコイイと思った。


最近、ストレス解消したことを聞いたら
「タクシーに乗ってすごい運転が荒かったから降りる時に運転手にめちゃめちゃ怒鳴りつけて、その後すぐタクシー会社に電話してめちゃめちゃクレーム入れてやったことはスッキリした!!!!」って言われて、この人マジで最高だなと思った。



ある時、Kさんがチーフの席に一緒に入ったことがあった。
その席は上座の一番偉いお客さんが少し気難しいオジサンだった。私が前に座った時も、気に障るようなことを言わないようにとハラハラしながらとても気を遣った。
私がお手洗いに行っている間に、Kさんとその偉い人で一瞬一悶着あったと女の子から聞いた。事務所に帰って控え室で何があったのか詳しく聞くと、そのオジサンはKさんに向かって、「誰がこんなブスよこしたんだ!!!!」とブチギレ、しまいには首を締めるような動作を取ってきたらしい。とんでもない自体である。
さすがのKさんもこれは沈んで、いつもの悪態をつく余裕なんてないんじゃないかと、控え室はザワザワしていた。


チーフの処理を終えてKさんが控え室に帰ってくると、開口一番に「あのハゲ!!!!」と叫んだ。


「なんがブスじゃあのハゲ頭!ハゲ頭引っぱたいて『うるさい!!』って言ってやったわ!!!!!!!!!!!!」
とKさんは高らかに言う。


「自分もブサイクなくせに何を言うとるんじゃハゲが!なんなら私より、隣に座っとったお前の嫁の方がブスじゃボケカス!!!!!!!!!!!!!!」

といつもに増して清々しい悪態をKさんは放ちまくった。

心配していた私含め女の子たちは、Kさんのあまりの悪口に思わずまた笑っていた。
ザワザワしていた空気感は一気に笑いに変わった。


心底この人はカッコイイなと思った。





Kさんは実は私より2歳年下である。

その事実を知ってからも私は敬語をとることが出来なかった。

あまりの貫禄や落ち着きを放っていてタメ口を今更使うのがこわいというのもあったが、純粋に尊敬していたからである。


Kさんはコンパニオンの他に、キャバクラでも働いていた。時にはコンパニオンの宴会を終えて、そのままキャバクラの方に出勤して朝まで仕事、という日もあるようだった。

「女の子がチヤホヤされる寿命は短いからね。もうすぐ21よ。若いなんて言われなくなる。だからちゃんと仕事探さなきゃね」


と言いながら、Kさんは元気に働く。
21で若いと言うなら、2歳上の私はどうなるんだと一瞬思うが、そういう話ではないのだ。周りとの比較なんて関係ない。
この仕事は「求められているか求められてないか」自分自身が一番理解できる。相手の表情、話し方、空気感。個人の価値は個人の物差しで計られ、需要を肌で感じていくのだ。




挨拶も出来ないままに私はこの仕事を辞めたので、Kさんにも別れの挨拶もしてない。
外で遊ぶこともない、仕事が終わったら他人同士、忘年会や歓送迎会も何も無い、割り切った職場で、女の子同士の関係性もアッサリしていたので、まあそれでいいかとも思う。でもKさんのおかげで楽しくやれたということはずっと残るんだろうなと思う。





Kさんが今もどこかで頑張ってたらいいなと思う。


「気にしなくていいよ!あんなクソハゲ!」


悪口で人を元気にしながら。

私は宮崎あおいにはなれない

私の家の近くには川が流れている。



日本全国で上から数えた方が早いくらい汚い川で有名である。
何ヶ月かに一回ゴミの清掃活動が行われたりもするんだけど、それでも河岸にはいつもゴミと泡吹いて死んでる魚が打ち上がってる。
まあそれはもうドブ川である。

しかし、大きな川ではあるので、地元の一番大きな花火大会で使われると河川敷が出店でいっぱいになったりもする。いつもは、ランニングや犬の散歩などに励む人がチラホラ見られ、ドブ川の河川敷だが、この街にはなくてはならない存在である。


子供の頃、叔母の家族が飼っていた犬をこの河川敷によく散歩させに行っていた。
猫派だった自分の家では犬は飼っておらず、近くに住んでいた親戚である叔母家族と祖父母が犬を飼っていたため、犬を散歩させたい時はいつも頼んで散歩させていた。散歩させることが犬を飼う者としての義務にもなっていたため、私の要望はどちらの家族からもいつも快く受け入れられていた。

名前はミッキーとミニー。
ミッキーが祖父母の家で飼っている柴犬。
ミニーが叔母の家で飼っているゴールデンレトリバー
叔母家族がディズニーが好きというだけで付けられた安直な名前である。
ミニーはゴールデンレトリバーというだけあってめちゃめちゃデカかった。ミッキーよりミニーの方がめちゃめちゃデカいという自体が発生していた。人に説明すると二度聞きされるのが定番だった。
人懐っこくて元気なミッキーも、大人しいけど見た目が怖いミニーも私は大好きだった。

中学生の時、ミッキーが死んだ。寿命だった。
小学生の時から散歩させていたから、元気がなくなっていく様子を見て、そろそろなのかもしれないと子供ながらに思っていた。
身近で生活を共にしていた生き物が死んだのは初めてだった。その姿を見て、「ほんとに眠るように死んでいくんだなあ」と思ったのを覚えている。
ミッキーが死んでからも、私はミニーと散歩していた。

ある日、私は家族と何かしらの喧嘩をして、いろんなことが上手くいかないことにイライラして、夕方ミニーを連れていつもの河川敷の散歩コースを歩いた。

何で怒られたのかは覚えてないけれど、頑固だった私は自分の思い通りに物事が運ばないことでよく憤りを感じていた。(今も若干そういう節はある)


いつもと同じコースなので、いつも通りの橋の下で折り返してそろそろうちに帰ろうかなと思って折り返そうとしたら、ミニーが足を止めた。

ミニーはまだ先に行きたがっていた。

「でももう暗くなっちゃうよー」
と私は言ったが、ミニーは帰りたくなさそうにしてた。完全に記憶の中の世界だからほんとかよと言われたら何も言い返しはしない。

促されるがままに先を歩いた。



秋だった。
夏の暑さがだいぶおさまり、涼しい風が吹き抜け、私も長袖の羽織りをまとっていた。

河川敷の伸びた草は黄色になり、夕日を浴びてキラキラと輝きながら、風と共にユラユラとなびいていた。

それはまさにミニーの毛並みのようだった。



なんだか色々とどうでもよくなってきた私はiPodを持ってきていたので、その時大好きだったRIPSLYMEの「Dandelion」を聞きながら歩いた。

この曲のPVは宮崎あおい父親と喧嘩して家を飛び出す所から始まる。そして曲に合わせて河川敷を歩き、河川敷で色々なものを見てだんだん元気を出していくというようなものだった。

曲の調子に任せて足を交互に出すと、とても気分よく歩けた。



日は落ち、あたりはだいぶ暗くなっていた。
すると川の向こう岸の明かりや橋の上の車の明かりがどんどん灯っていった。
黄色、緑、青、赤、色んな色がピカピカと光って主張して、そしてそれが川に反射してユラユラ揺れて混ざっていた。


私はすっかり感動してしまっていた。
魚が死にまくってゴミが浮かんでるようなドブ川のくせになんでこんなきれいな景色作れんの。
いや、ドブ川だからこそこんなきれいだなって思うのか。

そんなふうに
一つ一つの明かりに生命を感じたりなんかして、「これが人生か」って思った。



14歳のくせに。何が人生だ

と今になって思う。






家に帰ると、門限を過ぎたことを親にこっぴどく怒られた。下唇噛み締めながら我慢して「門限過ぎなきゃ見れないモンだってあるんだよ」と思っていた。


そしてミニーは数日後、ミッキーの後を追うように静かに死んでいった。

最後に散歩したのは私だった。


ミニーが死んだのは連れ回した私のせいかもしれないって私は謝ったけど、叔母家族には「最近散歩させてなかったから、嬉しかったと思う。ありがとうね」と私の頭を撫でてくれた。

子供ながらに、「気を遣ってこのセリフを言われてるんじゃないかな」と思った。

色々な理不尽な出来事を一見誰も傷つかないような綺麗ごとテイストでありきたりな言葉を使って終わらせるのは私の得意技である。
でもだからこそ、「ミニーも幸せだったはず」とか、そんなことは言いたくない。
そんな大人に、私はなりたくはないのだ。

ちっぽけな経験でたやすく人生を語るような大人にも。きれいごとでうまくまとめるような大人にも。





まあ、ひとつ言える確かなことは、

いくら大人になろうと

私は宮崎あおいにはなれない。




RIPSLYME 「Dandelion」

youtu.be

つぶやくということ

Twitterが好きだ。

小学生からずっと日記を書き続けていた。
TOKIOがその時から大好きだったので、大好きなTOKIOの絵を添えて、絵日記のような形式でその日あったことをキャンパスノートに書きまくっていた。

日記帳は全部取ってある。最初に始めたのは5年生の時。1冊目のノートの裏表紙には「絶対に見るな!見たらお前はどうなるか分からないぞ」という文がおどろおどろしく書いてある。なんて物騒な小学生だ。
別に中身は見られたって大したことがない。犯行予告が書いてあるわけでもあるまい。
その時の友達との会話。少し気になっていた男の子の話。
でも誰にも見られたくはなかった。

その中の文は私だけの文で、ノートの中は私だけの世界だった。

ブログという文化をわたしはあまり知ることがなかった。家にあるインターネットではTOKIOのファンサイトをめぐり、同い年の子が書いているTOKIOブログにいつもコメントをしていたというくらいだった。
のちのち、テキストサイトが流行っていたことを知り、リアルタイムで面白い人たちの文章が見れなかったことを死ぬ程後悔することになるのだが、私は私の中だけで大体のことを完結してしまっていた。

自作の漫画もたくさん描いていたが、姉くらいにしか見せなかった。小説も自分が書いて、自分で読む。
日記を誰かに見せるなんてもってのほか。
私の創作意欲は、私のためだけに使われていた。


高校の時、携帯を持つようになり、Twitterに出会った。
好きな文を好きなだけ呟く、というコンセプトが気に入って、すぐにアカウントを作った。
Twitterをするようになってすぐ、サカイエヒタさんという人を見つけた。
エヒタさんは今はライターをしている。(当時もしていたかもしれないが、その時の私には何をしているのか明確に理解出来なかった)
エヒタさんのツイートが大好きで、エヒタさんが運営しているアカウント、血液型bot、笠井あい、などは全部フォローして文字を辿っていた。大人っぽくて、でもたまに狂っていて、とってもカッコよかった。

その当時、同い年の子たちは大体mixiやデコログなどのSNSをしていたが、Twitterをやる子も少しずつ出てきていた。
そして、「〇〇もやってるんだ!フォローしていい?」と言われることも増え、私のTwitterのフォロワー欄は徐々に高校の友達の名前が埋まっていった。

エヒタさんの言葉で溢れていたタイムラインには、友達の日常だったり、恋の悩みなどが流れるようになった。
独り言のように、エヒタさんの真似ごとみたいな言葉をつぶやいていた私は、段々人に見られるということを意識して文を打つようになった。

時には、友達のツイートにリプライを送って、学校では話せないことをワイワイ話したりした。
自分のツイートを見た友達が、学校でそのツイートのことについて触れ、共有してもらった嬉しさに胸を踊らせることもあった。



楽しかった。




もうその時には日記はほとんど書いていなかった。




私は誰かに認めてもらうことが嬉しくなっていた。呟きを、書いた絵を、小説を。


自分の中だけで楽しんでいたノートの中から飛び出して、誰かと楽しさを共有する幸せに気づいてしまったのだった。




大学生になるともっともっと、Twitterは流行っていった。日常を楽しんでいるリアルが、そこらじゅうに流れていた。
私はそこに「誰かがいる」ということに慣れてしまった。


思えば、日記を書いていたあの頃の私は1人で生きるのがとてもうまかった。
好きなものが沢山あって、自分で楽しいことを見つけ出すのもうまかった。きっと誰ともつながれなくても、1人で楽しく生きていけたんだろうと思う。



独りよがりで閉じこもって、一人で解決してしまう私。


誰かの言葉に安心して、無意識に誰かを頼る私。



どっちが寂しくて、どっちが強いんだろうか。






そんなことは置いといて、最近リスト機能を上手く使いこなして、リアルの友達と、大好きなツイッタラーのツイートを分けて見て楽しめるということに今更気が付いた。


Twitterたっのしーーーーーー!!!!!




あの頃の私と、今の自分がどう違うとか、そんなことはどうだっていい。
ノートの中であっても、Twitterの中であっても、私は私でしかないのだ。
その事実をどう思うかも、自分次第でしかないのだ。
独りよがりだって、誰かに依存したって最終的な判断は、いつも自分に託されているのだ。



twitter.com

twitter.com



一つだけ思うのは、またエヒタさんあの頃みたいなツイートして欲しいなってことくらいだ。

それだけ。

韓国のアカスリに行ったら地獄だった話

大学の友人8人で韓国のソウルに行ってきた。
今回話したいのは、そこで経験したアカスリの話である。

元々、NANTAという日本でいう吉本新喜劇のようなショーを見ることになっていたが、ガイドさんにアカスリを紹介され、NANTAよりそっちに興味が出てしまった私は、他の6人とは別行動でもう一人とアカスリに行くことにした。アカスリに行ったもうひとりをRとする。

「すごくよかった〜〜!韓国のアカスリ最高〜!」
みたいな美容ブログのレポがやりたい訳じゃないので、店の詳細は出さずに書いていきます。美容とかね、そういうんじゃない。そういうんじゃないんだ。


これは真実を伝えたいがための衝動的な記録である。


6人とは別れ、2人で送迎バスに揺られながら連れられて行った店に入ると、肌がツルッツルのテンションの高いオバチャンが出迎えてくれた。



まず狭い部屋でオバチャンに美容のカウンセリングを受けた。カウンセリングっていうか要は予約してるプランに加えて他のプランもやりませんかっていう勧誘である。

友達と2人で「ほうほう」と一応うなすぎつつ、「でも・・・お高いんでしょ〜〜〜」と言った感じでなんとか切り抜けた。セーフセーフ。

私のほっぺたを触ってきて「オネェサン、肌カサカサだと思ったけどやっぱりカサカサダネ〜〜〜」って言ってきた時には手が出るかと思ったけどセーフセーフ。「ふっ」って得意の鼻鳴らしで乗り切ったからセーフセーフ。



カウンセリングが終わったら胸から巻くタオルみたいなのと髪を入れるキャップを渡されて、「裸になってこれ来て出てきてくださ〜い」ってオバチャンは言う。

個室で着替えてみたらあまりのマヌケな姿に思わず笑ってしまった。
私もRもそこまで出るところが出ていないので、タオルに隠された所がなんの凹凸も出ずストーーーンっとしていた。ちなみにRの許可もなくこんなことを書いているのでバレたら縁を切られるかもしれない。
「え?まじでこの姿で出るの?」
って思いながら2人で部屋から店のフロントに通じてる道に出る。今他のお客さんが来たらこの恥ずかしい姿を見られる。
全身が平野構造になっているのがバレる。

と思ってたら割とすぐにオバチャンが帰ってきて、撮影スペースみたいなとこで、申し訳程度にチマチョゴリを着させられて写真撮影をした。


ノーブラノーパン化粧直しなしの強制チマチョゴリ撮影である。


そうこうしてたうちに友達と2人でだんだん一つの思いが強くなっていく。




「なんかおもてたんと違うぞ・・・」




無料チマチョゴリ撮影サービス!とは書いてあったが、まさかアカスリ前にこんな急いでやるとは思ってなかった。
いやまあまあまあ無料サービスだしね。こんなもんよ、こんなもん。
とりあえず韓国のアカスリに期待を膨らませるべく、余計な不安はかき消しておく。


そしてそっから頼んでいたアカスリのプランに入っていく。

さっきまでの肌ツヤツヤのオバチャンとは変わって、黒いTシャツに身を包んだ、さっきより歳がいったオバチャンが大きな銭湯みたいな所で出迎えてくれた。あまり日本語は話せないようだった。


タオルに身を包んだまま、まず95度のサウナに私たちは無言で入れさせられた。



始まったな〜とワクワクして、Rと「あったかいね〜」などと会話を交わしながらしばらく過ごした。サウナ内には時計がない代わりに砂時計がひとつあった。しかし、入った時逆さにされることはなかったため、時間の経過を知らせてくれるものは何も無かった。


「ん?これいつ出ればいいの?」


無言でサウナに入れられたから、何分後に出ればいいのかも分からない。そして何分経ったのかも分からない。まあきっと時間が来たら呼んでくれるんだろうと思ったが、呼びに来ない。


「あれ?もしかしてこのまま殺される?私たち」


と2人でこれが韓国の洗礼かと訳の分からないことを考えながら、とりあえず1回出てみようということになった。出てみたら黒Tのオバチャンが3人に増殖していた。無言で私たちをサウナにぶち込んだオバチャンがどのオバチャンか見分けが付かなかったが、1人が水を私たちに差し出してくれた。


「なんだ〜〜〜我慢せずにさっさと出れば良かったんじゃ〜〜〜ん」


と2人で言いながら水飲んでいると、オバチャンに「ノンダライッテネ」と背中を押され、もう一回灼熱のサウナに放り込まれた。


そして確信した。


なるほどこれは地獄だ。


地獄へ行く前に、最後の思い出としてチマチョゴリを着させられ、そこからは永遠とこの灼熱のサウナに私たちは焼かれ続けるのだ。


「地獄と考えたらまだマシやね・・・生きてるし・・・」
「うんまだ生きてるね・・・」


地獄と考えたら気分が楽になるという謎の精神状況で、もう座るのも限界になった私たちはサウナの中で汗だくで寝転んでいた。

もし外から鍵をかけられて閉じ込められたら、あのよく分からない置物でサウナの窓ガラスをぶち壊して2人で脱出しよう、という話し合いを大真面目にしていたが、途中からそんなことを言う余裕もなくなって、完全に意識が朦朧としていた。


あともう少しで死ぬという所で、黒Tのオバチャンが呼びにきてくれた。
「良かった。ここは地獄じゃなかったんだ」と思いながら、促されるまま身体を冷やしていると、次は65度くらいのサウナに入れられた。


またサウナかい。


「まあでもここはまだ耐えられる地獄やね」と2人で話す。
もう地獄以外で形容しなくなってる。


そのサウナも耐えられなくなって出ていくと、次は汗を流して風呂につかれと言われる。
最初入った時は極楽〜〜〜と思ったが、耐えられなくなって、出たら「アカ!デナイ!モットハイッテ!」と黒Tオバチャンに強制的に風呂に戻される。
やっぱり地獄である。


温泉とかサウナとか普段好きで結構行くんだけど、人に強制的に入らされるのってなかなかしんどいんだということを知ることが出来た。いい発見。



そうしているとようやく、「オキャクサマ〜」という声が奥のカーテンフロアから聞こえる。

ようやくだ・・・今までの地獄はアカを出すためには仕方の無い犠牲だったのだ。ここからようやく身体を綺麗にしてくれる。
期待に胸を踊らせカーテンを開けると、黒Tだったオバチャン2人が、なぜか黒いブラジャーとパンツになって立っていた。


なぜだ。

なぜお前たちがそんなセクシーなランジェリーを身にまとっているんだ。

これから一体何が始まるんだ。



オバチャンの身体は出るとこ出ているが、本来出なくても良いところも全部出ていて、そんな身体で黒下着を付けているのでものすごい迫力である。

タオルを身にまとった平野構造の私たちと全身が脂肪という脂肪に包まれたセクシーランジェリーのオバチャンとの間に、絶妙な空気感が漂う中、オバチャンは「裸になってココにねてクダサーイ」と言ってきた。

裸になりながらRが「私たちが裸になっても恥ずかしくないように、向こうもギリギリまで脱いでくれとんやろか」と耳打ちしてきた。
いや、そんな気遣いはどう考えてもいらない。
アンタらは脱がなくてもいい。


セクシーランジェリーの真相は謎のままついにアカスリは始まった。


アカスリはゴッツイ岩みたいな硬いものを身体にゴシゴシ押し付けていくみたいな感じで、死ぬほど痛かった。
そして時々オバチャンの色んな柔らかい所が当たったり目の前に広がったりしていた。新しいタイプの地獄である。

でもやっぱりサウナで毛穴を開き切っただけあってものすごい量のアカが取れていた。
これが目的だったけど、あまりの量のアカに普通に引いた。アカの蓄積量ってすごい・・・。


アカスリが終わると、顔のキュウリパックをした。なぜキュウリなのかと問われたら、めちゃめちゃ水分含んでるからじゃない?としか答えようがない。

そしてオバチャンがオイルをかけてきて、全身オイルマッサージが始まった。
黒下着のセクシーなオバチャンに、裸でオイルをかけられて身体中撫で回されるという新感覚の地獄を味わうことが出来た。
なんとも言えないけど、アレである。
世界のどこかにはこの状況を、他に変えようのない天国だと評する性癖をお持ちの方もいるんだろうなと思った。


ボーッとしてたら「パンッパンパパンっ!」
という音が聞こえてきた。
横を見てみると、Rがお尻を軽快なリズムで叩かれていた。

あまりにも軽快に叩くので、今まで笑いを堪えていたらしいRは「ぶふっふふふっ」と笑っていた。
そしてそれにつられてなぜかオバチャンも「フフフ」と笑っていた。

響き渡る「パンパンパパン!」という尻を叩く音とRとオバチャンのほくそ笑む声。
よくわからないけど言語の壁を超えた瞬間だと思った。

その後もう何回かサウナに入ったり泥パックをしたりして、プランは終了した。



肌を触ってみると、なんとなくツルツルして綺麗になった気がしたので、Rに同意を求めたら、Rは「アカスリが痛すぎて全身がカミソリ負けしたみたいにブツブツしとるわ」と笑っていた。どうやら元々肌がそんなに強くないらしい。

なんでお前アカスリやろうと思ったんだよって言ったら「面白いかと思って・・・」と言っていた。なるほど。確かにめちゃめちゃ面白かったので、Rにとっては大満足の結果だっただろう。



以上が私が経験した地獄アカスリである。

アカスリ自体が始めてなので、「日本でやってもそんな感じだよ〜〜!」と言われるかもしれないけど、異国の地で経験するという不安や恐怖を踏まえて、地獄だったと評させてほしい。私は肌が綺麗になったので満足です。



最高のエンターテインメント、それが地獄アカスリ。。。



これを見て「韓国行きた〜〜い!アカスリやりた〜〜い」と思った美容系の人ははぜひ行ってください。
6500円でした。高いと思うか安いと思うかはあなた次第です。



ソウルは物価が安くて爆買いするには最適な街でした。出店で「ニセモノたくさんあるよ〜ニセモノしかないニセモノ天国だよ〜!」と声をかけられた時にはさすがに笑いました。

ニセモノもあるしニセモノ以外もある都会。




楽しかったです!!!!!!!!