リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

酩酊記2021


どうやらまた懲りもせず1年が終わるらしい。2018年の大晦日に酔いながら、酩酊記2018というブログを書いた。大晦日の恒例にしようと思ったものの、私特有の「年の瀬に誰がこんな個人的なものを読むんだよ」という自意識が働いて書けなかった。最近はそういう自意識を捨てて生きて創作をするというのがテーマになりつつある。

 

今年の誕生日にある人から「世界の美しい猫図鑑」という大きな図鑑をもらった。なんで?と聞くと、「最近疲れてるから癒されるかなと思って」と答えられて、笑ってしまった。私の家には2匹猫がいるので、本で猫を見なくても充分猫を味わうことはできるのだけど、私のことを思って、そのくそデカい猫の図鑑を探すためにその人がかけた時間や私に対する想いを想像したらなんだか嬉しかった。

私は、誕生日に猫がモチーフになったものをもらうことがとても多い。自分自身、猫がモチーフになったものを身につけるのは好きなので嬉しい。

これは猫を飼っている人間あるあるだと思うのだが、猫を飼っていると自動的に「猫好き」のイメージが生まれ、最終的には「その人=猫」という方程式が成り立っていく気がする。

だから猫飼ってるというだけで、猫のものをプレゼントするのは多少安直なのかもしれない。猫飼ってても、猫が好きとは限らないもの。

しかし、人を表すイメージの中で、猫が好きというのは、簡単にできるカテゴライズの1つで、そういう分かりやすいものに、人は手を伸ばしたくなるものだよなと思う。

 

 

今年は、「自分」そのものや、「集団の中の自分」について、考えた一年だった。

大人になってから新しい出会いをするのは難しいと思っていた中で、今年は面白い人たちと出会って遊ぶことが出来た。


服屋をしていたり、短歌をしていたり、写真をしていたり、漫画を描いていたり、面白い人たちは総じて、人前で売りにできる「自分」を持っていて、表現する術もユニークで魅力的だなと思った。

何度かその人たちと一緒に遊んで、その度に「自分」に対して自信をなくして、家に帰ってからやり切れなくなって文章を書くということがあった。

あとから共通の友達と話をして「あの集団に居心地の良さは求めない方が良いぞ」と言われて、強く納得した。確かに一度も居心地の良さを感じたことはなかったからだ。

彼らには、面白いけど、どこか危なっかしさもあって、急に一人が笑いながら車道に飛び出しても、「あの時のアレは最高だったな」って笑い合えそうな、露悪的な雰囲気がある。私はその車道に飛び出す1人には絶対になれないんだろうなと思う。

私は彼らと精神的な意味で交わることはないし、ずっと1つと1つであり続けるんだろうと思う。それでも私が彼らのことが好きなのはずっと変わりないのだろう。

 

 

秋に、大学時代一番仲良かった親友と倉敷で遊んだ。

距離が離れてしまったことで、当たり前に会って当たり前に話していた感覚を取り戻すためには、少し時間がかかった気がするけど、それでも私はその子の前で、完全な「自分」になっていた。

たくさん話した後、コーヒーを飲みながら彼女は、「ピリきゅうの漫画を読んでて、本当に面白い人たちばっか出てくるから、なんで私と仲良くしてくれるのか、真面目に分かんなくなる時があるよ」と言った。

瞬時に「なんじゃそれ」と笑った。

彼女の前で、たくさんはしゃいで、早口で面白いことを言おうとして舌を噛んでいた私としては、それはかなりの愚問だった。でも、彼女のこういう自分に自信のない所が私はとても好きなんだよなと改めて思った。

 

「自分」そのものと「集団Aの中の自分」「集団Bの中の自分」「大好きな人といる自分」、当たり前だけどどれも違っていて、どれが本物の自分かなんて結局誰にも分からない。

ただ、何かひとつ自分の中に核を持つために、私は文章を書いていくんだと思う。

たよりない、水の輪郭を描くように。

 

 

「〇〇を動物に喩えるなら」

高校の時、生徒会の部室でそんなたわいもない話題になった。いつも通り何人か「猫を飼っている」という安直な理由で、私を「猫」と喩えた。

そんな中、生徒会長が私を「イルカ」と喩えた。

なぜ彼がイルカと喩えたのか、理由をあまり覚えていないけれど、イルカと喩えられたのは後にも先にもその時だけだったので、よく覚えている。

 

もうなくなったあの空間でイルカのように泳ぐ私と、花壇の花を食べるようなおかしなことをする人たちを笑う私と、居心地よく誰かと眠りにつく私と、全部混ざりあって気持ち良く溶けていくまでの時間を、また、生きていく。