リハビリ人生

色々な文章を書きます。

奇跡が起きてラジオに出れた話

「主張大会に出てみない?」


中学生の時、先生にそんな提案をされた。
主張大会とは、市の中学生が参加して原稿用紙何枚分かの自由なテーマの主張を各々がステージの上でマイクをもって客席に向かって投げかけるという大会で、うちの市ではわりと始まって間もない大会だった。

「え・・・?わたしがうちの中学代表で出るってこと?」

先生はそうそう、と頷いていた。
〇〇(私です)ならやってくれるだろという期待と信頼のあつい眼差しをわたしにかけまくっていた。

おいおいおい、勘弁してくれ。

と口には出さないがそう思った。



うちの中学は市内でも有数の荒れた中学で道路に向かって生卵が投げられたり、消火器で廊下を真っ白にした挙句その上を不良が自転車で走り抜けていくのを、先生が木刀もって追いかけ回すみたいな学校だった。
ステレオタイプのやばい学校である。


その学校で文芸部かつ図書委員で大人しく生活してるのだからまあそれなりに相対評価は高めだったのだろう。私は前からよく色々なことを先生から頼まれる生徒だった。家が真逆の方向にある不登校の子の家の訪問とかをなぜか頼まれてしていたし。
話したこと無い相手に「はは・・・久しぶり」とプリントを届けさせられるこっちのみにもなってくれ。


で、何度目かのムチャなお願いがこの主張大会だった。


こんなに荒れた中学校で主張大会なんか出てなんの業績を残そうって言うんだよ。と思いつつ、私はなんやかんや了承していた。流されやすいし、断れない少女である。

先生と主張のテーマを決めることになったが、私は主張したいことのテーマが何も思いつかなかった。
強いて言うなら好きだったTOKIO国分太一が中二で初彼女を作ったというエピソードを知っていたため、その時の私は「一刻も早く彼氏をつくって処女を捨てなければ」というなぞの強迫概念で頭がいっぱいだった。
べつにお前が処女を捨てようが捨てまいが太一くんには関係がない。

大観衆の前で「国分太一くんと同い年で初恋人が作りたいです!!!」
とマイクの前で主張したら私の中学のヤバさをさらに裏付けることにしかならないので、私の心の中の主張は心の中にしまい、主張のテーマは「挨拶の大切さ」に決まった。
なんだそれ。


その日から私は挨拶の大切さを裏付けるために、近所の人に会うと挨拶をするようになった。
「おはようございます!」
自分の脳内では、爽やかな少女が明るい笑顔で元気よく挨拶をしていた。
「ぉはょうございますぅ・・・」
実際には、幸の薄さが全面に出た顔の少女がぎこちない笑顔で恥ずかしそうに挨拶をしている。
誰か無理すんなと言ってやってほしい。

人間関係は鏡のようであると言うが、挨拶もそうであった。
気持ちの良い挨拶をすれば気持ちの良い挨拶が返ってくるし、気持ちの悪い挨拶をすれば気持ちの悪い挨拶が返ってくるか、無視をされる。

私が自分のことを「やべぇ奴だ」と思っていれば、向こうももれなく「やべぇ奴が挨拶してきた」と思うのだ。当たり前だ。


そんなことに気づきつつも、恥ずかしさが抜けないまま挨拶を続け、結局心の底から気持ちの良い挨拶は出来ないまま、主張大会の日にちは迫っていった。




そして主張大会当日。

私は元々大きな声を出せる体質だった。
腹から声を出そうとしなくともそれなりに大きい声は出せるのである。
なので、練習中も大きな声を出すことに対しては、誰からの指摘も受けることなく、そのままの調子でやれとだけ言われていた。

当日に強いのか、その日は練習よりも伸び伸びと声を出すことができ、抑揚も自然に作れていた。

「わたしはこれからも挨拶で人を元気にしたり、自分も元気をもらおうと思います!」

そんなことを私は笑顔で言い放って、主張は終わった。
明らかに調子が良かった。




結果的に、
30校ほど参加していたその大会で、
結局私は銅賞を取ってしまった。





(チョッロ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜)




あまりの呆気なさに私はそんなことを思っていた。
性格が悪い
確かに校長や教頭の前で何度も練習をしたり、努力もしたが、努力すれば結果が出るという事実になんだか妙に呆気なさを感じてしまったのだ。




銅賞から上の賞を取った人たちはその後色々なイベントに呼ばれた。隣の市まで表彰式に行ってもう1回主張をしたり、高そうなホテルで発表会をしてめちゃめちゃ旨いカツカレーを食べたりした。自分の能力にそぐわぬ目まぐるしい展開に圧倒され、私はカツカレーが美味しかったことしか、覚えていない。


そして、さらに信じられない出来事が起きた。



地元局のラジオ番組に数分出演することになったのだ。




私は“ラジオ”というものがとても好きだった。スイッチを押すと、夜中でも昼間でも誰かの声が流れてくるということがすごく画期的なことに思えた。好きな番組はカセットテープに録音し、好きなタイミングにテープが伸びるまで何度も何度も聞いたりしていた。

今でもネットラジオを死ぬほど聞いている。
私にとって“ラジオ”というのは今でも少し特別なものなのだ。



そんなラジオに出ることになってしまった。



番組自体は聞いたことがなかったが、その局のラジオ番組はたまに聞くこともあった。
部屋に入ると、数本のマイクが机の上から伸びていた。そして、わたしにそのマイクが向けられた。


「こんにちは」


声は震えなかったけど、震えていたような気がした。

その後少し喋って、主張の内容も要約して話したりした。

気の利いたことも喋れなかったし(誰も中学生にそんなことは求めていない)、本番のような抑揚もうまくつけられなかった。


「これからも挨拶をしていきたいです。」



主張大会当日より何倍も緊張した時間は、あっという間に過ぎていった。






何日か後にラジオが放送されるのを聞いた。カセットの録音ボタンは押さなかった。

ラジオの中で私はとても自信がなさそうに、自分の主張をしていた。
私の声はこんなふうに人に聞こえるのか、となんだか恥ずかしくなった。



銅賞を取った時、なんだか呆気なく思ってしまったのは、私が挨拶の大切さのことなんか別に主張したくなかったからだと思う。

数日間なんとなく挨拶をして、大会が終わってからはそこまで挨拶なんてしていなかった。
挨拶の大切さを心の底からのうたう少女など、そこには存在していなかったのである。


私は主張大会で適当なでまかせを声に乗せて客席に届けていただけだった。
私は自分が、思ってもいないようなことを爽やかな顔でスラスラと口に出せる人間なのだと、分かった。

ただ、大好きなラジオでは嘘が付けなかったらしい。
私は自分がどんな場所でも器用に嘘がつける人間ではないのだと、分かった。






悪いことが起きた時しか開かれない、中学校の全校集会で、私の名前が呼ばれ拍手をされた。皆「なんだそれ?」という顔をしていたし、その後の2階の渡り廊下から来客用のスリッパを誰かが大量にぶん投げたという学年主任からの報告で、その絵面を想像した生徒から思わず笑いが起こり、「笑ってる場合か!!」との生徒指導からの一喝で体育館は静まり返っていた。
当然だが、私の主張大会の話など誰の記憶にも残らなかった。



それでよい。
この学校はそれでよいのだ。

それに、あんな恥ずかしい主張はもう誰の前でもしたくはない。




万が一何かのラジオに出る機会が今後の人生にあったら、心の底からの主張を声に乗せて放ちたい。



「太一くんが結婚した年齢までには結婚してぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」



おわり。