リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

私と東北の「絆」

今日は、自分と東北について書こうと思う。

2011年3月

世間でやたら、「絆」という言葉が使われだした。




東日本大震災
日本周辺における観測史上最大となったその地震は、それに伴って発生した津波とも相まって大規模な被害を呼び起こした。

地震が起きた直後、私は高校生でテスト週間が終わり家に帰宅した直後、テレビで津波の実況を目にした。
目の前に広がる映像に、私にはどうにも現実感を感じられなかった。他人事のようにしか感じることが出来なかった。
そして私は、テレビを消し約束していた友達と遊びに行った。
私は蓋をしたのだった。そして、何事もなかったように、遊んだ。

家に帰ると状況はさらに大変なことになっていた。どれも臨時放送に切り替わり、余震を伝える警報が鳴りやむことを知らず、テレビの中は騒然としていた。自分が蓋をしたものが、何だったのか徐々に実感することができた。

「あの中には人がいたのか」

非現実として捉えていた映像が、もう一度脳裏に焼き付き、そこからずっと、離れることはなかった。




時間が経つにつれ、全国のボランティアの受け入れも始まり、世間で「絆」という言葉をたくさん耳にするようになった。

「今こそ日本の絆を大事にしよう!」
「助け合いの心を大切に」
「立ち上がれニッポン!」

そのような言葉が色々なもののキャッチコピーとして流行っていた。

自分自身、高校で生徒会に所属していたため、東日本大震災の募金活動を駅前で何回も行った。

「私たちは東日本大震災を忘れません!絆を大切に!」

声を出しながら、心のどこかで何言ってるんだろうと思っていた。




あの時、地震が起きていたことを知っていながら、遊びに行った人は私のほかにどれくらいいたんだろう。

現実に蓋をして意識的に見ないようにした私と東北の間になんの「絆」があるんだろう。



どういう過ごし方をしていたら良い、悪いという問題ではない。


「絆」なんて言葉を安易に使うのが、私にはどうも耐えられなかった。





大学に入り、縁があって、東北の支援する学生団体があることを知り、ずっと東北のことが気にかかっていた私は、すすんで所属することになった。
その活動の中で、2回宮城県岩手県に足を運ぶことができた。
あの時、とても遠く感じていた東北に、4年の時を経て初めて行くことができた。


あの日脳裏に焼き付いていた映像の場所には、何もなかった。
ただただ、広い土地が広がっており、土地の高さをかさ上げするための盛り土がたくさんあった。
一歩一歩踏みしめるように私は歩いた。


被災者の語り部の方ともたくさんお話をした。

「自分たちのつらかった思いをわかってほしい」という人
「もうあまりかまわなくてもいいから放っておいてくれ」という人
「被災地としてじゃなく、この街自体の魅力を知ってほしい」という人

いろんな人の話を聞くことができた。

被災地に住む自分たちと同世代の学生と交流することもあった。
被災地に住んでいるからこその話を聞けるのかと思っていたが、そんなことはなく、彼らとしたのはたわいもない話ばかりだった。肩透かしを食らったようだったが、それが当然だとも思った。

彼らは日常をそこで楽しんでいて、私たちと変わっているところは何一つなかった。



「被災者」とか「被災地」とか、記号付けをされていることの意味を考えた。

過去に起きたことを、忘れないためという目的はあるとは思う。
しかしそれとは違って、私が再び東北に足を運びたいと思う理由として、「またあの人に会いたい」「またあの美味しいご飯が食べたい」という想いがある。

そこには、もう「被災地」「被災者」という呼び名は存在せず、ただ個人同士の関わりや、東北そのものへの土地への愛着があるのだ。


それを踏まえた上でもう一度、「絆」って言葉を咀嚼してみたら、なんだか少しは納得できた気がする。






言葉は難しい。


だからこそ、安易に使いたくない。






高校生だった時の私は少し考えが凝り固まっていたかもしれない。
でも、今も「絆」なんて言葉使うのなんかこっぱずかしいし、何様だよって思っちゃう。

それぞれの形の絆があっていい。それを否定することはない。
東北もこれから形を変えていくし、自分だって、10年後には今の自分ではなくなるだろう。
だからその都度、自分が納得する関係性を作っていければいい。



だから、今の自分が考える東北との絆は、

「またあの笑顔のかわいいオバちゃんが作っためちゃめちゃ美味しい海鮮丼が食べたい」

ってくらいでいいのだ。






あれ、ほんとうまかったなあ。