もうすぐ春が来る。
季節の中で春が好きという人は多いだろう。
出会いと別れの季節で大きく感情を揺るがされ、温かさに包まれて人は幸せを感じる。
満開の桜に酔いしれ、気分が高揚する。
春は居心地がいい。ポカポカと晴れた太陽の下で、芝生に身を投げ出すと、解放感に満ち溢れる。
春は好きだ。
でも、なんだか、
不安になる。
冬の寒さに凍えてた何ヶ月か前と打って変わって、そんな急にぽっかぽかになって多幸感を感じてバチが当たるんじゃないかと思ってしまう。
特にこわいのはお花見。
桜の樹の下で、綺麗な桜を見ながらどんちゃん騒ぎである。酔っているのはお酒だけにではないだろう。桜には妙な快楽物質が含まれているのではないかと思う。と、すると私たちは春を楽しんでいるのではない。春の快感に中毒になっているのだ。と、今まではそんなふうに思わざるを得なかった。
そしてそんな歯痒さを解消してくれる答えと出会った。
その答えはある本の中にあった。
梶井基次郎の『櫻の樹の下には』という物語。
梶井基次郎といえば、『檸檬』が有名であるが、この人の書く文章の頽廃的な空気感に私は心底惚れている。『櫻の樹の下には』はページにすると4ページ程で終わってしまうとても短い短編である。
この本の冒頭を見て、私は心を打たれた。
──櫻の樹の下には死体が埋まっている!──
言い切った。
言い切ったのだ!
残りのページもずっとそのことについて書いてある。「だから桜はあんなにも生き生きと美しいんだ」と、主人公は信じてやまない。
妖艶たる美しさのその底に惨劇を用意することで、満足しているのだ。
たったの4ページで私の心は、完全にこの考えに魅了されていた。なんだか納得せざるを得なかったのだ。
何かがおかしいと思っていた。
春はあまりにも幸福を連れてくる。
なんだか不自然にも程がある。
無抵抗に幸福を受け入れることに抵抗感を感じる。
そんな私の疑問を、この物語は解決してくれたのだ。
私は、たくさんの死体の上に立ってこの景色を見ている。
血を啜りながら、桜を、春を楽しむ。
たくさんの犠牲の上に立ち、
桜を「美しい」と思い、春の温かさに幸福感を感じる。
“春”を通して、いかに自分という命が恵まれたものかを知る。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」
「美しいなあ」「温かいなあ」「幸せだなあ」
私にとっての春は、生き残りの罪障感と幸福感、その2つがあって初めて完成するんじゃないかと思った。罪障感があるからこそ、自分の命に、やってくる春に、ありがたみを感じられるのだ。
死体は、他人のものとは限らない。
いつか知らぬ間に死んでいった自分自身かもしれない。
今こそ私は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人と同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。