リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

夢の作り方

「夢女子」という言葉がある。

自分の好きなものに熱を入れて追いかけるにも追いかけ方があって、その夢女子たちはいわゆる「自分が恋人になることを夢見」ていたり、異性として相手のことを意識してしまっていたりもする。

今から夢女子辛いあるあるをいくつか羅列していく。

①生身の推しに一生会えない
これは自分のいる次元より一つ下の次元の相手を好きになった場合である。次元が一つ下なので肌に触れることも直接話すことも叶わない。しかし、創作の上では自分と相手を引き合せ、肌を合わせることも可能!そう!ペンさえあればね。

②好きになった相手が死ぬ。
二次元の物語上、展開によっては推しが死ぬという最悪の展開も余儀なくされる。しかし、創作の上では推しに永遠の命を与え、自分との物語を続けていくことも可能!そう!ペンさえあればね。


と、まあ以上のことは二次元のキャラクターの夢女子になったら、という話であったが、私はどっちかというと、次元が同じ人を好きになる夢女子の方が辛いことが多いと思っている。

③ライブやイベントで推しに会えるので、何かしらの勘違いを起こす
次元が同じなので相手は自分と同じ時を送っている。そのため、ライブやイベントに出向くことで生身の推しを目にする機会が多い。そのため、「自分の推しが自分と同じ空間で息をしている」という事実から発展して「頑張れば相手の人生に自分も干渉出来るのでは?」という錯覚を起こす。この錯覚が様々な勘違いや災いを引き起こすのだが結果的にこのようなことが起きる。

④推しが結婚or彼女ができて絶望の淵に落とされる
これが三次元夢女子の最終的な行き着く先である。
好きになった相手の幸せを願い、相手のより良い人生応援していると思っていたら、いつの間にかその中に勝手に自分を入れ込み、「相手が自分の知らないところで勝手に幸せになっている」という事実に耐えきれない悲しみを抱いてしまうのである。

自分が推しの人生に影響を及ぼすかもしれないという0に近い可能性に希望を見出したり、推しが自分の人生(彼女や結婚相手)よりも自分たちファンを優先してくれるんじゃないかという自分勝手な望みを抱いたり、

自分でも無理だと分かっているのにも関わらず心のどこかで希望を隠しきれないのが夢女子なのである。


今では私は夢女子は卒業している(つもり)。

夢女子が世界一悲しい職業であることは身をもって知っているから。
某農業系アイドルグループのボーカルのことが本気で好きだった中学時代に熱愛報道が出て、私は散々泣いて立ち直れなかった。

もうあれ以来、こんな思いをするのは嫌だなと思っている。だから、自分の中の夢女子的な思考に蓋をしているけど、今でも追いかけたい人が出来ると、その人が既婚であることにどうにも出来ないやるせなさを覚えたり、彼女が出来たどうこうに一喜一憂する自分が少しいたりもする。
普段は表に出ることのない、大人になれない自分の弱い部分なのでそれは許してやってもいる。


ところで今日、声優の羽多野渉さんの結婚発表がニュースで流れた。
その時思い出したのは、自分の大好きな友達のことだった。
前に秘書の記事でも書いたダイナマイトスケベのOちゃんである。
Oちゃんは、部屋に何枚もの羽多野渉のポスターを貼り、羽多野渉のために何万ものお金を費やし地方から何度もライブに出向き、ファン一同のスタンド花を差し入れし、熱心にファンを続けていた。

Oちゃんが羽多野渉の夢女子をしていると明言をしたことはなかったけれど、少なくとも追いかけているファンとして、何かしらのショックは受けているのかもしれないと思い、連絡を取ってみた。

そこで返ってきたOちゃんの返答がこちら。

「皆が羽多野渉結婚で心配してくれてるみたいだけど、私は30歳を超えた声優は全員既婚者だと思ってるのと、羽多野さんの独り身エピソードに無理があったので、既婚者だと思ってたのでダメージ少ない」

なんて達観してるんだOちゃん。
もう既に推しが結婚しているという事実に対して覚悟が完全に出来ていたらしい。

「唯一の後悔はスタンド花をもっと豪華にしておけばよかった」

私はOちゃんの漢気にしてやられた。息を巻いた。

Oちゃんは続けてこう語った。


「ライブとかイベントはお互い彼氏彼女旦那嫁がいるいないとかじゃなくて、そのとき1番楽しんでるのが自分と羽多野渉ってだけでも、その空間は最高なものになるんだよ」

文字を辿りながら、自分が言えなかった正解を見た気がした。
そこには、夢女子やファンを超越した愛があった。
オタ活のしすぎで、クレジットの使い方を上司にまで指導されているOちゃん。
祖父が有名なスポーツマンであるOちゃんの背中は、どこまでも広く私の目の前にズンッと立ちはだかり、捕まることさえできそうにないなと思った。


何が正しい追いかけ方とか、ファンとしてどうあるべきかとか、そういう者は一切なくて、結局追いかけ方は自由だなと今では思っている。

でもOちゃんの考え方は、自分と好きな人が一番幸せであるという共通点を利用した、誰も傷つけることのない思考で、わたしはすごくカッコいいなと思ったのだった。

 

でも、私はもし今後また夢を見るなら、好きな人も、そして私も、誰も傷つけない、そんなやり方で夢を見る女の子になりたいなと思う。

 

 


サイトの入口で、空欄に自分の名前を入力しなくても、まだまだ自分で自分の夢は作れるらしい。

お嬢様は犬にパンティを盗まれる

夢日記をつけてはいけないという話を私は信じている。


毎日起きた時に見た夢を記録することによって、自分の意識の上で夢と現実との境界線があやふやになってしまい、どこまでが夢の話だったか現実だったか分からなくなって発狂してしまうらしい。
いつだったかその話を耳にして、絶対に夢の内容を記録するのはやめようと心に誓っていた。

しかし、今日見た夢はどうにも印象的で忘れることが出来ないので、あえてブログにも留めておきたいと思う。


今日、夢の中で私はオナニーが大好きなお嬢様になっていた。

自分でもまったく意味がわからないが、オナニーが大好きなお嬢様だった。



お嬢様なので住んでいる家はとても大きい。そして、執事があちらこちらに構えていて、いついかなる時もわたしのことを見守っている。
強盗が入ってこないように家中監視カメラが張り巡らされており、四六時中家の様子を伺っている。

この状況で何が起こっているかもう皆さんにお分かりいただけたであろうか。


オナニーが出来ない。

お嬢様はオナニーを自由気ままにすることが出来ないのでございます。
セバスチャンよ。これは死活問題である。
お嬢様は思春期で(そういう設定だった)色んなことがしてみたい年頃。覚えたてのそういうことをしてみとうござるのじゃ。

ということでお嬢様は作戦を企てるのです。
「絶対に人に見られることなく自由にオナニーをしてやるぞ大作戦」である。
もう監視されたオナニーなどしない。私は自由なオナニーを手に入れる。

学校帰り、迎えに来た執事に「今日は用事があるから、どこどこに何時に迎えに来てちょうだい」と言い渡す。
執事の目が離れたら、いそいで河川敷へと向かう。河川敷の橋の下には小さな扉があってそこには人が身を屈めて一人分入れるスペースがある。
狭すぎるとか不衛生だとかそんなことはどうだっていい。お嬢様はオナニーがしたい。!が全てなのだ。
そこに入ることがもうすでにゴールなのである。

監視の目が解け、お嬢様は扉を閉めた。
お嬢様はやっと手に入れた自分の時間を楽しむことが出来る・・・

「ワンワンワンワン!!!!」

すると、どこからともなく犬がやってきて、どうこうして、お嬢様のパンツをくわえて走っていった。

「か、返して〜!!!!私のパンティ返して〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!」

お嬢様は恥ずかしがりながら犬をノーパンで追いかけていった。



という所で目が覚めた。



この先、現実世界で私がノーパンで犬を追いかけてる所を目撃したら、「夢日記をつけるのはもうやめろ」と説いてやってください。

大人の線引き

同級生の結婚の知らせをよく耳にするようになってきた。
24歳になる。そりゃ結婚もするし、子どもだってそろそろ出来てもいい頃なのかもしれない。


高校の同級生が、私が大学生の時に結婚をして、今では2児の母になっている。もっと早く子どもを生んで、小学生になりそうな子どもを持つ同級生もいたりする。

そんな人たちのことを見ると、何よりも「やばい」という気持ちが生まれる。この場における「やばい」は丁度よく当てはまる言葉がないから使っている。焦りや、羨ましさのやばいではない。どっちかというと、「せんぱい、マジパネェっす」の方のやばいだ。


結婚をしたいとは思う。
でも今ではないとも思う。
私が「結婚をしたい」と言い出す時は、現状に何かしらの不満を抱いていて、“ここではないどこか“に逃げ出したい時なので、正確に言うと「好きな人と温泉にでもつかってゆっくりしたい」の方が的を得ている。
結婚をしたところでその甘えに似た不満が解決されるかどうかは分からないので、少なくともそんなふうに考えているうちは、私は結婚できないんだろうなと思っている。


子どももほしい。
しかし、こっちはもっと先なんじゃないかと思っている。
友達は子どもをすごく欲しがっていて、子どもの将来や自分の年齢を逆算して計画的にいつ欲しいということを考えているのだが、私はその姿をみてやっぱり「やばい」と思っている。
リスペクトしている。だって私の何倍も大人だから。
私はまだ自分の子どもを自分以上に可愛がってやれる自信がないなと思う。そしてその責任感もない。自分はまだまだ子どもだと思っているし、子どもが子どもを育てることなんて出来ないと思っている。


父方のいとこと母方のいとこ、どちらも子どもを産んでいる。父方のいとこは両親がどちらも本当に美形なので、「ほんとにこいつ私の親戚か?」と思うくらい綺麗な顔をしている。そして母方のいとこは・・・その、メチャクチャ可愛いんだけど、私にマジでソッッッックリなのだ。正確に言うと私の小さい頃に。え?私が産んだの?ってくらいに。

その時初めて「子供が生まれたらこんな感じなんだな」という実感をもてた。
自分とまったく同じ顔をした小さな生き物に、なんとも言えない愛情があったのは確かだった。きっと私は子供が産まれたら、ちゃんとお母さんになれるのかもしれないなと、そう思えた。



話はそれるが今風邪をひいている。昨日から鼻水が止まらなくて目があかず頭がぼーっとして、最初は花粉症かと思った。私は花粉症になったことがないということだけが憂鬱な春を少し気分よくさせていたので、「ついにか・・・」と思った。耳鼻科に行ったら、医者のオジサンにニヤニヤしながら「んふっ花粉症なわけないでしょ・・・」って笑われた。なんだお前。ニヤニヤすんな。

問診票には耳鼻科らしくハクション大魔王が書いてあったり、ぬいぐるみがたくさんあったり子どもの存在がたくさん感じられたし、実際メチャクチャいた。治療室に入ってった子どもは数分後には全員泣きわめいていた。なんだか歯医者さんを思い出した。


私の番になって、検査のために鼻の穴をじろじろ見られた後、銀色の異物を鼻に突っ込まれた。痛い。さっき泣いてた子どもたちはこれをされていたのかと思った。
「ウワアアアアアン!!!!」
後ろで子どもが別の治療を受けて、泣きわめいていた。私も同じくらい泣きたかった。声をあげたかったけど「ウンッ」とか「ンゴッ」とか豚の鳴き声みたいなのしか出なかった。
医者はずっとニヤニヤしながら「んふっ痛いねぇ・・・」って言ってきた。ニヤニヤすんなって。遊びじゃねえんだぞ。

私は泣かなかった。(正確に言うと涙は出てた)
子どもたちみたいに泣きたかったけど泣かずに、治療費を払って車を運転して家に帰った。



子どもの頃は、子どもと大人の線引きが存在していて、いつか明確に大人になる瞬間が訪れるんだとばかり思っていた。
しかし本当はそんなことはなくて、その線引きは自分自身で引くものなんだと最近理解した。

自分のものさしと自分のペンで自分が大人であるという証明をするために境目を引く。自分に自信がある人はしっかりとその線を濃くひけるのだ。

今日のわたしは少し熱っぽい身体で線を引いて、鼻水でちょっと歪んだ線。

次はもっとうまく引こうと思っている。

ない。

乳がない。

今日言いたいことはこれにて終了です。お疲れさまでした。打ち上げは駅前の和民で予約しておきます。幹事の電話番号は090-7171-081×です。「ないないオッパイ」で覚えてください。

いきなり触れづらい自虐を端的にかましたあげく、誰もノってないボケをし続けるとは、どういう魂胆だ無礼者!とお思いのことでしょう。どういう魂胆も何もありません。今日は私が貧乳だというこの悩みのみが続きます。理解した人から一刻も早くブログを閉じて、温かいほうじ茶でも飲んでください。


小6の時、胸の大きい子がいたけれどまだ小学生だしこの時点での成長はこんなもんだろうと思った。
中2の時、まだ牛乳に頼ればなんとかなるだろうと思っていた。
高2の時、内心もうダメだと思う自分を見つけては行って「まだ焦らずとも良い」と言い、
20歳を超えて、「お前は手遅れだから胸以外の長所を探せ」と言った。

様々なことを考えて悶々とする思春期を送る中で、胸の小ささはわりと本当にコンプレックスだった。別にモテたいから巨乳になりたいとか、そういうことを思っていたのではない。「女性という記号」としてのおっぱいという意識があって、それがない自分は女性としておかしいんじゃないかという不安がついて離れなかった。
今思えば、そういう考えこそ差別意識でもあるし、人としての魅力はそこではないと思えるのだけれど、当時の自分にはすごく大事な問題だった。


貧乳にも貧乳同士のコミュニティが存在している。

大学時代に仲良くしていたコミュニティの一部が揃いも揃って貧乳だったので、「チーム背中」とかいう地獄のあだ名で呼びあっていた。俺たち貧乳!いかにオモシロ自虐で世を乗り切るか日々研究中!ヒュウ!


貧乳は妙に群れたがる。仲間を見つけると嬉しくなるのだ。小さいのは自分だけじゃないということに安心し、「実はわたしも小さいんだよネ」なんてことを言ったり言わなかったりする。胸が小さいもの同士にしか分からない話をしてそこそこ盛り上がったりもする。わたしはそんな子が現れるといつも、マラソン大会で「一緒に走ろうね〜」って言われてたのに走り出したら置いていかれる裏切られの代表例えを思い出す。

なぜって?
決まってるじゃないか。

私より胸があるからだよ。

お前がこの貧乳ロードを一緒に走ろう言うたんちゃうんけ!!なのになんだなんだその谷間は!!谷間があるやないかい!!谷間のたの字もなく果てしなく広がり続けるこの平野貧乳ロードを走ってるのは結局私ただひとりかーーい!!!この!!この!!
カントリーロ〜〜〜ド!!この道ずっと〜〜〜!!!ゆけば〜〜〜!!!!!!!

 


そんな私のコンパニオン時代の貧乳悲しいエピソードを羅列して終わりにします。

 

①胸がないのが鉄板ネタ

胸が小さいことを指摘した人は100パーセント「俺が揉んだら大きくなる」と主張してくる。やかましいわ死にさらせ。

 

②「オッパイが大きい子指定の宴会」に呼ばれたことがある。

しかも2名中1人が私。オッパイ大きい子を呼んだはずなのに50%の確率でド貧乳が回ってくる客の気持ちを答えよ。

 

③服と胸の間に小銭を入れるというオッパイ賽銭を強要されたことがある。

問答無用でジャラジャラと落ちていった小銭を見つめて、よーっぽん!家内安全!願えません!

 

 

なんやかんや言ったけれど、人の魅力は胸だけじゃない。途中に言ったこれが全てです。

 

群れようとするな。媚びようともするな。

100人のオッパイがあれば、100人の貧乳がある。大きさに困惑するな。上も下も勝ち負けもない。
持って生まれたその貧弱な武器で戦う人生はお前だけのものだ。

走れ!行け!誰よりも速く!君だけの貧乳ロード!

 

 

以上です。
最近、ブログの方向性を完全に見失ってるって知り合いに相談したら「人間味があっていいと思う」って言われました。
人間ってこんな味してるんですね。

リハビリ人生

もう何年も人間のフリをしながら生きている


「自分には人間の生活というものが見当つかないのです。」
太宰治人間失格の冒頭にある一文だが、ある日、この一文が自分にしっくりくるようになった。
それは、色とりどりのペットボトルのキャップが一人暮らしのわたしの部屋を埋め尽くした時だった。
人1人、それは大量なゴミを生み出すには十分な存在らしかった。一人暮らしを始めて一応やかんとお茶ポットは買ったけれど湯を沸かして茶を作るなどという芸当は私には到底わたしには無理だった。そうなるとどうなるか。大量のペットボトル飲料を買った。
するとなんだ、溜まる溜まる。ペットボトルの山だ。溜まる前に、ペットボトルの回収の日に合わせてまとめてゴミに出せばよかったのだけれど、わたしは決まったゴミの日にゴミを出すということも出来なかった。もうお気づきであろうが、私は部屋の片付けをすることが出来ない。

結果わたしの部屋にはペットボトルが至る所に溜まるのだった。冷蔵庫の上。レンジの上。ゴミ箱の蓋の上。ついには日頃使うテーブルの上にまでペットボトルの侵食が及んだ時、私はペットボトルを片そうと思うのだった。

片付けられないゴミ女の私だが、分別はするタイプのゴミ女だ。
ラベルとキャップを外し、それぞれを別の袋へ入れていく。しかし単純作業を続けていくうちにわたしは悲しい気分になる。

21世紀・・・まだこんなことをしているのかと。
小さな板で世界中の人とつながることの出来るこの時代に、
なにをわたしはこんな小さな部屋でペットボトルのラベルとキャップを外し続けているのかと。
馬鹿らしくなってキャップを地面に叩きつけたら勢い余って袋に入れていた、キャップも音を立てて全て転がった。

部屋一面のキャップを見て、「わたしは人間の生活に向いてないんだろうな」と思った。


規則正しく、色々なことをすることはすごい。

お風呂にちゃんと毎日入ること。これもすごい。
わたしは風呂には魔人がいると思っている。
魔人はずーっと入っているとぼーっとさせてくる。そして、今後の不安とか嫌なこととか考えたくないことを耳元で囁いて、わたしを湯船の中にズブズブ引きずり込もうとしてくる。
“のぼせている”という一言でも済むのかもしれないけれど、私は魔人がいるのだと考えている。



ペットボトルは決められた日に出す。

お風呂に毎日入る。

決められた時間に仕事に行く。

寂しくなっても誰かに依存したりせず、ちゃんと1人でなんとかする。





そんな人間の生活が、
わたしには見当がつかない。




だから私は、人間の“フリ”をすることにした。


友人や職場の人間は、私のことを人間だと思っているが、実は私は人間ではない。

足は5本あるし、目は三つある。頭から2本触覚も出せる。

私は人間ではないので、人間が当たり前と思って日々していることは、私にとっては当たり前ではない。

当たり前じゃないことを、やったらどうするかって?
一つ一つ褒めてあげるのだ。


私は今日夕ご飯を作って偉かったし、お風呂にちゃんと入って偉かった。
人間のふりをしているので、仕事にはちゃんと化粧をしていくし、お風呂あがりにはいい匂いのするクリームをつける。いいにおいがして、爪がちゃんと綺麗に整っている私は、当たり前じゃないことをたくさん出来ているすごい子だ。


初対面の相手には気の強い人間のフリをする。
声は大きくて、ハッキリと物怖じせずに言葉を発する。
なんとなく気の強い人間のフリをしておいたほうが、自分の弱さを隠すことが出来るような気がするので、そういう人間のお面を被る。

辛い時にも、気の強い人間のフリをする。「こんなのは全然わたしにとって、なんの影響も持たない」と、たまに強がったり無理したりもしながら、ピンチを乗り切る。


家に帰って、自分の部屋に戻り淡麗グリーンラベルを片手にスマホをいじる。もう人間のフリをする必要は無いと思うと気が緩んで触覚が出る。

別に辛いことがあった訳じゃないし、傷ついているわけでもない。疲れているわけでもない。そう思っているのに、スマホをたどる指は、頼りたい相手の名前を探す。

お酒は飲みたいし、人には頼って生きていきたい。
私は人間じゃないから、仕方がないのだ。



これは疲れているわけでも病んでるわけでもなくて、日常を自分なりに生きやすくする技である。






人間のふりをしているわたしが人間になるためのリハビリ。

そんな日々をわたしは「リハビリ人生」と呼んでいる。

生姜焼きの味、ひねりのない言葉

一人暮らしをして自炊をするようになってから料理ができるようになるひとは多い。
私は逆に全く自炊をしない一人暮らしを経て、実家に帰ってから料理をするようになった。まったく料理を覚えない私に母親が、しびれを切らし夕飯を作る役を与えてくれた。

毎日ちゃんと料理をするようになり、そこそこだけど作れるようになった。
すると、母親が「あんたの生姜焼き美味しいね」と言ってくれた。
家にあったレシピ本から適当に作った料理だったけど、なかなかうまくいったらしい。
ほかのなにものでもない、わたしは生姜焼きがうまく作れたのが嬉しかった。


私は生姜焼きという料理にある思い出があった。

大学に入って、初めて彼氏ができた。なんだか難しいことをいつも言っているひとだった。お酒と哲学が大好きで、いつも言葉の合間と合間を探して難しいことを私に言ってきた。
私は一生懸命それを理解しようとして、彼の家にあった「プーさんを題材にした哲学書」みたいな本が簡単そうだと思って、借りて帰ったのだけれど、一ページめから文字が紙の上を滑って一つも理解できず、プーさんの挿絵だけ眺めてすぐに返した。

難しいことばかり考えている人だからか、彼はよく気持ちが落ち込む人だった。
付き合う前に相談に乗っていて、彼の難しい言葉と違い、私のなんのひねりもない馬鹿真面目な言葉を、彼は好意的に受け取って「おかげで救われた」と言ってくれた。後日、彼からの告白で付き合うことになった。私がOKを出したころには夜が明けていて、ベランダから見た空が紫がかっていたことを今でもなんとなく覚えている。

恋愛経験が0の私は、「自分と付き合うことで相手になにかしらの得がなければ、付き合う意味がない」というヤバい思想を持っていたので、彼の役に立つすべをずっと考えていた。

相手が難しいことを言うなら出来るかぎりそれを理解して寄り添う人間になりたいし、わたしの何も考えてないみたいな単純さが、明るく向こうに響けばいいなと思った。


でも、全然うまくいかなかった。
私が全然心を開けなかったのだ。
なぜだかすごく無理をした。いまはお酒が大好きなのだけれど、当時は全然飲めなくて、お酒が好きな彼に合わせてかっこつけてたくさんお酒を飲んだ。ウイスキーを買って、色んなジュースと割って飲む彼にがんばってついていこうとした。誰もそんなこと強要してないのに。みえはって無理して、トイレで気づかれないように音立てないように吐いた。

冗談もあんまり言えなかった。酔うと、おおげさに変なことを言って、人に笑ってもらうことが私は好きだし、思い切りふざけたいし、冗談だってたくさん言いたい。だけど友達の前でする冗談が、彼の前では全くできなかった。
アルコールの匂いが充満した部屋で、なぜかいつも身を固くしている私だった。


いつだったか、彼が体調を崩した。
おなかがすいたけど何も調達できず、ごはんを食べていないらしい彼にわたしは、めったに作らないごはんをタッパーにいれて彼の家がある山の上へと、自転車をこいだ。

生姜焼きと、ポテトサラダ。

私が行った時、かれは寝ていていつまでも起きなかったので、レンジの上にタッパーを置いて帰った。そのあとしばらくして、彼から一言「ありがとう」というLINEがきた。



しばらくして彼と別れた。
私はめちゃくちゃ彼のSNSの動向をウォッチする癖があったので、それも嫌に思われていたようだった。あと、あの日の生姜焼きを食ってしぬほど腹を壊したらしい。
別れを告げるLINEが来た時、これでもかというくらい泣いたし、自分の家に帰れなくて友達の家に逃げ込んだ。朝が来る気がしなかった。

「生姜焼き、まずかったんならその時にすっと正直に言えや!!!!」とか、言いたいことの一つも満足に言えなかったのに、一丁前に私は彼が好きだった。




私は生姜焼きが美味しく作れるようになった。
過去を振り返って、私はただ人と付き合うということに舞い上がってたんだろうなと思う。相手のことを考えてるようで、自分のことしか考えてない子供だった。

損得とか考える付き合い方も、おそらくしていない。
彼と別れてから、自分の思うように、やりたいことばかりをする毎日を送っているし、時々しんどいと思いながらも、あの時のあの分岐の選択は、間違っていなかったと思う。

最近その例の元カレから、「君の作る料理はほんとうにおいしくなかったけど、ほんとあの時は楽しかったよ。いまでもきっと好きよ。当然に有効的な意味合いね。」とLINEがきた。

ほんと、こいつ相変わらず何言ってるかよくわかんねーなと思って、既読スルーした。










ここで、私の地元にあるスーパーの曲をお聞きください。


youtu.be




エブリデイ!始まる毎日!動き出すエブリタイム!

いつものあの~時間が好き!

エブリシング!なにもかも君と、過ごしたい!

エブリナイ!愛する予感ラブリーエブリー!









スーパーのテーマソングってびっくりするくらいポジティブじゃないですか?

信じられないかもしれませんが、今日一番伝えたかった事はこれです。
あとは全部嘘です。



結局のところ、こんくらいが一番わたしにとってはちょうどいいらしい。

すずめちゃんはきっとタバコを吸わない

タバコを吸う女が好きだ。

 

綺麗な女の人や可愛い女の人がタバコを吸っているのを見ると、二割増で可愛くみえてしまう。似合っていても似合わなくても良い。
身体に悪いものをわざわざ取り入れて、その口からモクモクと煙が出るのを見ると、言い表しようがない興奮を覚える。
煙は煙なのだ。人に害を及ぼすそれを口から放っている。
その煙を放つ主体が綺麗であればあるほどに、モクモクと出てくるソレとのアンバランスさが目立ってひどく良いなと思ってしまう。

なんなら顔の造形が整っていると評されるかどうかが問題ではない。
わたしは女の人のタバコを吸っている顔が好きなのだ。
遠くを見つめていて、それでいて何も考えてないみたいなぽけーっとした顔をしながらモクモクと口から煙を出す横顔は美しい。

 

話を変えるけれど、好きな友達がいる。

名をすずめちゃんとする。
すずめが好きで、Twitterのすずめの鳴き声を「ちゅんちゅん」とただ呟き続けるbotに、独り言を話しかけているのを見つけた時は、わたしの指は笑いながらいいねを辿った。
彼女とすずめのbotをフォローしている自分だけが知ることの出来るやりとりがわたしは好きだった。
高校からの友達だけど、出会った時より一層すずめに似てきた気がする。

その子は本がすごく好きだ。
「本に対するお金を渋るようになったら、わたしは人として終わってしまう」
と古本屋の中ですずめちゃんは私に言った。
真剣に選んで本を買う彼女は嬉しそうだった。

すずめちゃんが買って教えてくれた本で特に印象に残っている本は、生き物についての豆知識が可愛い絵と一緒に乗っている本だ。その本の中にある「コアラはユーカリにふくまれる猛毒のせいでいつも寝ている」という豆知識をたぶんわたしは一生忘れないのだと思う。

 

すずめちゃんと、とある雑貨屋に行った。
その雑貨屋は、空き家を再生して作ってあり、足を踏み入れるとギシギシと軋む音が聞こえ、商品が置いてある棚にもホコリが少し被ってあり、売ってあるものは中古の文房具、古本、色とりどりのボタン、となんだかいるだけで“今”を忘れてしまいそうな場所だった。

彼女はそこで万年筆を見つけた。
その万年筆は年季が入っていて、色があせたりしていたんだけれど、何よりも目立ったのは掘ってある名前だった。
すずめちゃんは名前の入った万年筆を、すごく嬉しそうに握って、買うかどうか迷っている旨を伝えた。きっと買うんだろうなと思った。

その後、適当に見つけたカフェで、誰なのか分からない名前が書いてある万年筆を持って、「これで手帳に字を書くのが本当に楽しみ」とすずめちゃんは嬉しそうに語っていた。

インクを買ったすずめちゃんは「アランの幸福論を書き写す!」と意気揚々に宣言をした。一時間後に「書き味はどう?」と聞いてみると、「1時間も書いてたのか〜こんな感じ」とノートに書いた字を見せてくれた。

 そこにはアランの幸福論らしきものは書かれていなくて、一月半ばにロング丈のコートを買って、来年はショート丈が流行るかもしれないから少し不安だけど、しっかりしたコートなの、と満足げに綴る、彼女なりの幸福論があった。

 

 

すずめちゃんはきっとタバコを吸わない。

 

モクモクとどこかから今日も煙は出ていて、
タバコを吸わないすずめちゃんと、わたしはきっとこれからも友達なのだろう。