リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

うさぎと毒ガスの島

大久野島へ行ってきた。


大久野島というのは瀬戸内海に浮かぶ広島県の島で二つの名称を持っている。

一つ目の名前が「うさぎ島」である。

その名の通り、うさぎがワンサカいる。
2013年に計測した結果によると700羽のうさぎがいるらしい。最初フェリーから降りた時はそんなにいるなんて信じられなかった。「いや、そんなにいないじゃ〜ん!」って馬鹿にしてたら、
木影とかよく見ると何羽ものうさぎがぎゅっっっって固まってる。
「え?!いたの!?」ってなる。
そんなに日陰が好きなんかい!

ほんで触ったらもうねぇ・・・
もうそれはモッフモフ。モッフモッフなの。
嬉しくなって島の外で販売してたエサをあげようとすると、膝に前足を乗せてエサを全力でもらおうとしてくる。そのわりにあげると、口にくわえてすぐに離れる。薄情な奴らめ。

あと何か知らんけどものすごい数の穴を掘ってる。
島唯一の宿泊施設がある公園内に、ボッコボコ穴が開いてるから、なんなんだろうと思ってたら、うさぎがそこにハマってる。
「これはわたしがハマるための穴です」と言わんばかりにハマってる。
なに?職員がうさぎのために穴ほってんの?って思ってたら、うさぎが自分で全力で穴を掘る姿を目撃した。穴にハマるためなら労力をいとわないプロフェッショナルたちがそこにいた。掘る→ハマる(寝る)→エサ食う→掘る→ハマる(寝る)→エサ食うの完璧なルーティーンが存在していた。

2時間近く車を運転してきて、そんなうさぎさんと、陽だまりの中にほおりこまれたらどうするって?
寝ました。気付いたらベンチで1時間くらい寝てました。連れはエサやりにハマってその間ずっとエサやっててうさぎと仲良くなってた。


あんまりにもうさぎが最高なので大きな目的を忘れそうになるが、わたしが大久野島に行きたかったのはその、大きな目的があったからだった。

もう一つの大久野島の名称が「毒ガスの島」
わたしが大久野島に行きたかった大きな理由のもう一つがこれだった。


大久野島は昭和初期、「地図から消された島」となった。旧日本軍は、島で毒ガスを秘密裏に製造することを決め、住人達を強制退去させ、毒ガス工場を作り上げた。
太平洋戦争末期には風船爆弾の風船部分も作られていたそうだ。

戦後、毒ガス製造に従事した者の毒ガスによる障害が次々と明らかになり、今でも後遺症に悩まされているらしい。
また、毒ガスが渡った中国で毒ガスのタンクが今でも見つかり、住民が気体を吸ったり、液体化したそれが体に触れたりして、今でも被害が続出しているらしい。中国政府は一刻も早い処理を日本にのぞんでいる。

毒ガス資料館から出て、再びうさぎたちと、うさぎとたわむれる人たちを見た時、なんだかわたしは笑ってしまった。

「異常な平和さだ」と笑ってしまった。

この島で毒ガスは確かに作られていたのだ。
その毒ガスは、実際に戦争で使われ、確かに人が亡くなったのだ。

ここは本来そういう島なのだ。




うさぎは鳴かない。

戦時中、毒ガスの動物実験用にうさぎが飼われていたらしい。

その頃のうさぎは全羽殺傷処分されたので、その時のうさぎの子孫はもう島にはいない。

1971年に地元の小学校で飼われてたうさぎ8羽が放たれて、繁殖して今の数になったらしい。

うさぎは鳴かない。

毒ガスで殺されたうさぎたちも。
放たれた8羽も。

うさぎの気持ちを考えようだとか、そんなことが言いたいわけじゃないんだけど、

うさぎたちが生きたということ
生きて生きて、増え続けたこと。

それがすごく、不思議で、特別で、怖くて、素敵で、うまく言葉に出来なかった。





「毒ガスの島」であり「うさぎの島」

並べるのもどうなんだという意見もあるらしいんだけど、やっぱりわたしは
「毒ガスの島」であり「うさぎの島」というのが、この島を最大限表していると思った。




島に一定数黒いウサギがいてすごく可愛かったので、家に帰って飼ってる黒猫を触ってみたら、なんかすごい硬かった。

大量のうさぎをさわってモフモフ依存症になって帰ったわたしだった。
お、最後に一言、患者が何か言いたいそうです。


ええからおめぇの尻モフらせろや!!!!!!!!!

秘す必要もないイミのない話

学生時代、色んなバイトをしていた。
その中の一つに「秘書」のバイトがある。

一応業務上の秘密を守らないといけないやらなんやらの誓約があるので、なんの秘書をしていたのかは言えないけど、小さな事務所みたいな所だったとだけ言っておこう。

仲が良かったOちゃんという女の子が、「人が足りてないからお願いしてもいい?」と頼んできたのがキッカケだった。私はその時他にラーメン屋で働いていたのだがラーメン屋は深夜22時からシフト入りで、夜間主の大学に通っている私は昼間の時間はすることが無かったのでOKした。

関係ないけど、Oちゃんは私が出会った女の子の中でベスト3に入るスケベな女の子である。ド巨乳でダイナマイトグラマーガールな彼女は、自分がエロいということを理解しており、エロさを武器にして世を渡っている。その割に働いた金すべてを声優のために注ぎ込むような中国人顔負けの爆買いを繰り返し、クレジットカードの使いすぎで上司に使い方を注意される金銭感覚の狂ったオタクとしての一面もある。

Oちゃんのスケベエピソード、その他諸々の伝説は語りだしたら3時間くらい過ぎてしまうし、おそらく彼女はいつもこのブログを読んでくれている(メチャ優しい)ので書かないが、私はそんなOちゃんが人として死ぬほど好きなので、Oちゃんの頼みには乗らざるを得なかった。


まず、秘書のバイトってどんな格好してるのか。
別に秘書というイメージから連想されるような、胸元をざっくり開けた白いシャツとタイトスカート、みたいな格好はしなくても良いです。Oちゃんがそんな格好したら完全に「爆乳フェロモン秘書ご奉仕60分」というタイトルがつく。(私はつかない)
私が働いていた所は、自由なところだったので、服装に関しては何にも気にせずに行っていた。
あと、勤務形態が、朝から夕方までで拘束時間が長いので、ド寝坊をして朝化粧をする時間がなかった日はそのまま行って昼の休憩中に家に帰って化粧をして現れて、事務所の人に「え?顔変わってない?」とよく言われていた。ほっといてよ。

やっていることはほぼ事務仕事。
会計システムを使って伝票処理とか、メールの受け答えとかそういったことをしていた。
あと、急に無茶振りで一字一句わからん資料渡されて「これpptにしといて」とか言われた時は「何言ってんの?」と思った。
精一杯やったフリして次の日のOちゃんに丸投げした。ごめん。

わたしの直属の上司は、見た目が少し怖くて物言いがとてもハッキリしているオジサンだった。彼と話す時は大抵Oちゃんの話ばかりしていた。「Oさんってお爺さん力士でめちゃくちゃ強いらしいよ」「たぶん吉田沙保里がいなかったらOさんが人類最強」「ケモノ」とかずっとOちゃんが一番強そうに写ってるお気に入りの写真を私に見せながら喋ってた。どんだけOちゃん好きなん。

事務所で2番目に偉い人が、わたしの面倒をずっと見てくれていた。上司のそばに行くと、スネ夫みたいなヘコヘコした喋り方をする調子のいい人だったが、私がパソコンを買ったばっかりという話をしていたら初期設定を全部やってくれたり、とにかく色んなことをしてくれた。

勤務が昼までだった日は車で少し遠いラーメン屋に連れて行ってくれたりもした。

「まだラーメン屋で働いてんのぉ?もう辞めなってぇ」

その人はずっと私がラーメン屋で深夜働いていることを心配してくれていた。

「女の子があんまり夜遅く出歩いちゃダメだよ〜」
「あ、ラーメン屋にこうやって連れてってること、Oちゃんには言わないでね。Oちゃん
はまだあんまり連れていけてないから」

と、とにかく優しくしてくれる。
なんでそんなに優しいんだろと思って聞いてみたら
「昔行ったフィリピンパブの女の子にめちゃくちゃ似てる」
との回答をいただいた。うれしくねぇわ。


今回のブログには特にヤマもオチもイミもはい。

結局経費削減のために、Oちゃんは残って私は辞めなきゃいけなくなったんだけど、大学卒業しても、時々あの日々を思い出す。

このバイトをする前の夏の日、私は「あなたが僕の運命の人です!」と言われて初めて付き合った彼氏に「人生の足枷」というランク激落ちの称号を下されてフられた。(そんなことある?)
まあまあ好きな人だったので「どうする?川でも飛び込む?」という心境の日々を送っていた時に、Oちゃんから誘われて、私は秘書バイトの、そんなに人に話すほどの事でもないへんてこな日々を送ることになった。

特にオチなんてないけど、たぶん何年か後に思い出すのは、こういう思い出なんだと思う。

あの時、Oちゃんに誘われて良かったし、フィリピンパブの女の子に似てて良かったし、あの人とは別れて良かったと思う。

意味がないことなんて、ないのだ。




え?なになに?
Oちゃんが、大勢の男をモノして帝国を作り上げてるって?しかも現在進行形!?


それはまた別のお話。

青春を強要するな

ポカリスエットのCMがある。

高校生が校舎の中で音楽に乗せて踊りだし、「君の夢は僕の夢」と歌う。意気揚々と踊る彼らの全身がみずみずしい青色に包まれて、「青春」の有様を見せつけられている、という気分になる。


あれは果たして青春なのか?


高校生が目に見えて、「今、青春をしている!」と思える時は一体なんなんだろうか。

体育祭で徒競走一番をとった瞬間?
文化祭で自分のクラスが優勝した瞬間?
好きなあの子と結ばれた瞬間?

どれもこれもが、青春として与えられたステージである。しかし、そのステージの上で自分の思うようなパフォーマンスが出来るかどうかはその子次第だ。

私は完全にパフォーマンスが出来ない側の人間だった。体育祭では、本当に運動が出来ないので徒競走で完全に迷惑をかけた挙句、他の色の応援団の方に仲良い子がいて、その子に頼まれて、他の色の応援団のTシャツの文字を書いてたりしてた。私の裏切り行為がバレていたかは知らないが、敵チームに協力してしまうくらい、私は体育祭という場にそこまで興味を抱いていなかった。



全身が青色に包まれながら踊り狂う姿を青春と呼ぶ人もいる。

しかし、その青色に包まれる舞台に立っておきながら踊ることを放棄するタイプの人間もいる。



わたしが学生時代に一番青春を感じたのは、ある夏休みの1日だった。
生徒会だったわたしは、同じく生徒会のメンバーとクーラーの効かないむんとした暑い部屋で顧問に呼び出されて待っていた。地味な女(私)、メガネ、メガネ、メガネのこの世で一番何も産まないカルテットである。
先生はやってくると、「生徒会のバッジを作るぞ!」と言ってきた。元々腕章はあったのだが、どうしてもバッジが作りたいらしい。

バッジのデザインを考えるとなった時、誰ひとりとしてデザインが出来そうな人が存在していなかったため、先生は生徒会の大きな旗を持ち出した。

「よし!!!この旗を上から撮ってパソコンにデータをいれてデザイン化しよう!!!」

全員が「一体何を言ってるんだこいつは」と思っていたが、もうその時点で暑さで完全に頭が回らなくなっていた。誰も先生の勢いをなだめるものはおらず、むしろそのテンションに乗っかってしまった。

全員で協力して、生徒会の旗を地面に敷き、シワにならないように伸ばした。風で飛んでしまいそうになるので、風がやんだ瞬間を「いまだーーーー!!!!」と見計らってそれを生徒会棟の屋上から撮影し(←なぜ?)、それをパソコンのデータにいれた。

「先生!こっからどうするんすか!」
「よし、ペイントを開け!」
「開きました!」
「よし、写真を貼り付けてそれの上からペイントでなぞっていけ!!!」
「!?!!?!!は、はい〜〜〜!!!!」

もう訳が分からなかったけど、暑さでテンションが完全におかしかった為、私たちは体育会系みたいなノリで「よっしゃあああ!!!」とペイントを開き、「おらああああああああ」と色を塗りつぶしていった。
細かい所はズームをして、一コマずつ色を塗り勧めていかなければいけないので、1人ずつ変わりながら、残りの者はうちわでペイントに向き合う1人を全力であおぎ続ける。「次はお前じゃあああああ!!!!」「よっしゃあああああああ!!!」と謎の奇声を発しながら全員でパソコンに向かった。

クーラーも何も効いてない、パソコンの熱と男臭さの中で、必死によくわからない何かを全員で完成させるというその光景に、私は「あ、青春してるな」って、なんとなく思った。


結局、経費が降りなかったとかでバッジは作れなくて、その夏休みの丸一日はなんの意味にもならなかったんだけど、
私はそのどうしようもない一日のことをずっとずっと覚えている。

きっと、ずっと覚えてる。





青色の舞台に立たされて、踊らなくったってなんの罰もあたるわけじゃない。



青春は与えられるものじゃない。

与えられた青春を無理やり満喫しようとしなくたっていい。


お前がお前の青春を作り出せ。


それが、「君の夢」であり「僕の夢」です。

【CM】ポカリスエット 「キミの夢は、ボクの夢。」全篇【歌詞付き】 - YouTube

ポカリのーもっ

じいちゃんへ

じいちゃんは、
酒とタバコを愛している。


酒は金麦。タバコはメビウス


お酒は午前中から飲み始めるから、車を出してもらう頼み事は朝イチにしにいかなくてはならない。自分の家から徒歩1分の距離にある家に、「駅まで車で送ってよ」と言いに行くと手遅れになることが多かった。

じいちゃんは会う度酔っ払っている。夏になると上半身裸に下はステテコ、風呂上がりみたいな格好で、下校中の知らない小学生に「おかえり〜」と声をかけている。不審者として通報される一歩手前だ。陽気なジジイと不審者の境界線は曖昧でそれは見方しだいなのである。

小学生だけじゃなく、じいちゃんは知らない人にすぐ声をかける。喫煙所で会った人とは絶対仲良くなるし、ビアガーデンなんかに行くと近くにいる人に踊りながら声をかけたりする。「もう!じいちゃん!ちゃんと皆の近くおってよ!」と迎えにいくと「ほっほっほ」と頬をほんのり赤く染めて笑うのだった。



タバコは1日一箱は吸う。
うちの一族はじいちゃん以外吸う人がいないので、「もっと減らしーや」とみんな言っていた。タバコの値段がどれだけ上がっていってもじいちゃんのタバコの本数が減ることは無かった。

小さい頃からそばでじいちゃんの指先のソレから、煙がモクモク出ているのを見て、「おいしいのかなあ」と不思議に思っていた。
じいちゃんは私を見つけると「ほいっほいっ」と言いながら謎の踊りを踊って近づいてくるので、聞くことは無かった。


酒もタバコも吸うけど、運動はしない。
そんな地球に優しくない不健康な生き方をしているじいちゃんだが、医者に驚かれるくらい今まで病気を一つもしたことはなかった。



今年の六月にじいちゃんが足の骨を折った。

散髪屋に行く途中、普段は乗らないサドルの高い自転車に乗って転んでしまったのである。さいわい、2ヶ月病院に入院してリハビリをすれば治る程度と医者には言われた。
私は週5で、ばあちゃんを車に乗せて一緒に病院に見舞いに行った。じいちゃんは将棋が大の得意なので、将棋をさしたこともあった。3時のおやつに間に合った際にはばあちゃんと3人でおやつを食べたりもした。「おまえが来たらじいちゃん元気になるわぁ」ってじいちゃんは笑っていた。

足の骨にボルトを入れる手術の時。
その日も私とばあちゃんが2人でついていた。
手術の前はいつもは陽気なじいちゃんが、さすがに緊張しているようだった。
私がトイレに出て帰って来た時に、じいちゃんは別のベッドに移されていた。じいちゃんのそばにいって顔を見て私はふと気がついて口に出した。

「じいちゃん鼻毛出とるで」

わたしのその言葉の直後に、看護師さんが合図を出し、じいちゃんは手術に向かった。
やらかしたの一言である。
手術の前にかける言葉として、おそらくワースト10に入る不出来合いな言葉である。最悪の孫。

手術は無事終わり、次の日また見舞いに行ったら、散髪をしてもらっていた。こけて骨折したせいで、出来なかった散髪である。

「おっ!ええじゃん!髪の毛少なくても散髪するとカッコええじゃん!」

またもや余計な一言を私は言う。
隣にいた家族も「一言多いわ」とツッコミを入れる。じいちゃんはハゲ頭を光らせながらまた「ほっほっほ」と笑っているのだった。







じいちゃんは、

酒とタバコと

家族を愛していた。













じいちゃんは、骨折して入院し、そこから2ヶ月経って、退院する直前に、調子が悪くなった。


胃ガンだった。


末期だった。



そして、一昨日、じいちゃんは亡くなった。





胃ガンが見つかってからは進行がとても早かった。毎日毎日病院に行って、時には病院に泊まりがけでいた。

じいちゃんはしんどそうだった。
つらそうだった。
陽気に笑って踊るじいちゃんはいなかった。

でも、いつもちゃんと私の名前を呼んでくれた。







葬儀が終わって、火葬場に移った。
火葬は1時間ほどかかるようだった。

私のカバンの中には、じいちゃんがいつも吸っていたメビウスが入っていた。

喫煙所に行き、タバコを口元に持っていき火をつけた。
モクモク。モクモク。
じいちゃんの指先にあったそれは、わたしの指先に今はある。

思ってた以上に吸いやすくて、「なるほど、これは一箱吸えなくもないな」と少し思った。


モクモクモクモク。


タバコの煙とじいちゃんの煙が空でまじわる。












じいちゃん





もう、どこも痛くないね。


良かったね。





たくさんタバコ吸ってお酒飲んでね。





お酒とじいちゃんが大好きなわたしより。

全てを憎んでる人の話

その人はこの世のすべてを憎んでるかのような顔をしていた。

「語り始めたらね、不満が止まんないんですよ」


その本屋はジリジリと暑かった。細い道を入っていったところにある、病院を改装して作られた古本屋。看板は一見看板だと気づくことはできないし、平日は23時~27時のド深夜にしか営業していない。まるで誰にも入ってほしくないみたいだ。
置いてある本はてんでバラバラで、最近入荷した話題の本もあれば、光ったりベッドが回転したりする昭和のラブホの写真集だったり、モザイクという概念がなさそうな昭和のポルノ雑誌とか、調律のあってないギターとか置いてあったりする。

なんだか色々いい加減だ、と思う反面、案外それが心地よかったりする。
ざっくばらんとしているようで、どこか一貫性がある、独特な雰囲気をもつその店が私は好きだった。

その日は学生時代の男友達と、その本屋がある小さな町に来ていた。メインイベントは、その町の一つの寺にある鳩の餌を買い鳩と戯れて仕事などの日頃の鬱憤を晴らすことだった。正直くそ暑いのに外で鳥とわざわざ触れ合うとか勘弁してくれと内心思っていたが、あまりにもそいつが、目を輝かせながら「鳩って・・・かわいいぞ」とか言うもんだから、ちょっと気になって誘いに乗らざるを得ない。
そしてお目当ての寺に行く道中、件の本屋の看板を見つけ久しぶりに行ってみたくなり(というかすでに暑かったので休憩がしたく)、その友人も本をそれなりに読むタイプだったので入った。



おやすみプンプンなんてねえ・・・読まない方がいいですよ」


それが店長が私たちに話しかけてきた言葉だった。
私たちが、レジの近くにある棚に置いてある浅野いにおの「おやすみプンプン」全13巻セットの話をしていたときだった。

おやすみプンプンは、ヒヨコの姿で描かれた少年プンプンが小学生から大人になるまでの人生の波乱や、感情の激動を描いた作品である。
出だしの世界観などがシュールで(小学校で物語の本筋に関係ないところで校長と教頭が奇声をあげながらかくれんぼをしていたりする)、そこについていけなかったり、プンプンの鬱々とした感情の表現が過剰に重々しかったりする。

店長はよりによって私が友人に「おやすみプンプンあるやん。めっちゃ面白いよこれ」と話していた時に、「読まない方がいい」と釘を刺してきた。
店長と話すのはこれが初めてだったし、いきなりそんなことを言うもんだから思わず笑ってしまいながら「どうしてですか」と私は聞いた。


「めんどくさいんですよ、プンプンは。こいつは一の感情伝えるのに原稿用紙何枚分も使わないと言い表せないんですよ。一つのことにくよくよくよと。あとこいつ本当に頭のおかしいやばいやつみたいに描かれてるけど、結局はめちゃくちゃ平凡などこにでもいる奴なんですよ。そういうしょうもないところも嫌い」

店長はまくしたてるようにプンプンの嫌いなところを言っていった。いつも物静かに座っていたので、そんなに早口でしゃべれるとは思っていなかった。


そして私は、店長が言ったプンプンのいやなところ、それが私のプンプンの好きなところだと感じていた。
学生時代、新刊が出るたび本屋に急いで買いに行った漫画はおやすみプンプンだけだった。私はめんどくさくて重々しく色んなことを深く考えてしまうけど平凡なプンプンのことが好きだった。どこか自分と重ねていた部分もあったのかもしれない。


「ようするにこいつは俺みたいなんすよ。もうそれも含めて嫌い。」


自分と重ねていたという気づきと共に、店長もそれと同じことを言った。


「私は好きなんですけどね、プンプン」

と私が言うと、

おやすみプンプンとか、太宰治の『人間失格』とか好きなんですとか言ってくる女は終わってますからね」

と言い放った。
それまぎれもなく私のことやないか。
プンプンはおろか浅野いにおの作品は全て本棚に揃っていて、太宰治もしっかり集めてる私のことやないか。

ここで怒ったり気を悪くして店を出てもよかったのかもしれない。
「終わっている女」こと私は、その頃には完全に店長のひどい言い草の虜になっていた気がする。
けなされているにも関わらず、面白くて笑いが止まらなくて、私は店長の話をもっと引き出すことにした。


店長は私の質問に何でも答えてくれ、そうしてすぐ分かったのは店長と私が地元が同じということであった。



店長は私の地元兼自分の地元を


「あそこは暴力の街です。」
「センスが終わってるダサくてくだんない奴しかいない。」
「駅前にはブスのキャバ嬢と顔面が終わってるホストがはびこっている」
「俺の同級生もダサくてしょうもない奴しかいない。一生MRワゴンにでも乗ってろ」
「一刻も早く滅びてくれ」


とまくし立てるようにけなした。

自分が生まれ育った地元を100で貶される気分はどうかって?
めちゃめちゃ面白い。
やっぱり私は爆笑せざるを得なかった。

店長は心底地元を憎んでるらしかった。そこからもその文句は尽きることなく延々と喋っていれそうだった。

「この店にくるサブカル女子はなんにも本の価値を分かっていない」
「かわいい〜とか言ってパシャパシャ写真撮ってるお前は何にも可愛くない。たとえ外見は可愛かったとしても、中身がない。スッカスカの人間性。」
「#フィルター越しの私の世界 ってインスタのタグはなんだ。お前のフィルターの先には何にも広がっていない。無。」


店長の文句のテーマが店に来るサブカル女子たちにいったとき、一緒に話を聞いていた友人がしびれをきらして、「よし!!!!わかった!!!!買います!!!!」とおやすみプンプン全巻を店長の前に勢いよく置いた。
「本気っすか?」とジト目で彼を見る店長を横目にわたしは、まだ笑ってるのだった。



店を出て、重い漫画を抱えながら友人は「なんでこれ帰りに買いに来ますって言わなかったんだろ・・・」と後悔をしていた。私たちはジリジリと暑い日差しの中メインイベントの鳩の餌やりをするため、坂の上にある寺を目指していた。もっともな後悔である。


「あの人すげぇ人だったな」

と友人は言った。またそれと同時に「もっとあの人と見合う知識量をもってあの人と話がしたいな」と言った。

店長は色んなことを知っていた。聞くところによると驚くことに私たちと歳は2個くらいしか変わらなかったのだが、文学の知識も物事に対する知識も遥かに上をいっていた。それでいて色んなことを憎んでいた。




わたしは店長が言っていた地元の嫌いな所をぼんやりと思い出していた。

「センスがなくてしょうもなくてダサい奴しかいない街」

店長が言うことは全部その通りだと思った。

でも、わたしはそんなダサい街が好きだった。ずっと、この街で暮らしても構わないと思っているほどに。



店長と同じくらい色んなことを知ったうえでわたしはこの街のことが好きだと言えるだろうか。


嫌いなものが増えるのか、はたまた好きなものが増えるのだろうか。

結局ものはとらえようなのだろうけど、
わたしはたぶん悪口を言っている人が単に好きなんだろうなとも思った。



鳩は餌をあげると死ぬほど人懐こかった。餌があるわたしの手のひらだけでなく、腕にまで乗り、最高で3羽は乗った。正直鳩の面白さを舐めてた。メチャメチャおもしろいじゃん。と笑う私を友人はしたり顔で見ていて若干ムカついた。


楽しかったけど次この街に来る時のメインイベントは、あの店長の次なる悪口を聞くことにしたい。

スタバに見栄を買いに行く女の話

私はスタバに行くのが好きである。


新作が出たらわりとすぐにチェックをしに行くし、スタバで勉強をしたり友達とお話をするのも嫌いではない。

だがしかし、心の底からスタバのなんとかフラペチーノが飲みたいと思って、私はスタバに行っている訳では無い。

私はカフェインが苦手である。
純度の高いコーヒーを飲むと眩暈がして動悸が止まらなくなり吐き気を催していてもたってもいられなくなるくらいカフェインが苦手である。スタバの可愛くデコレーションされたなんとかフラペチーノでさえも全部飲み干すと少しその後気分がすぐれなくなる時がある。

(最近知ったのですが、スタバってカフェインレス頼めるらしいですね!スタバ最高!バンザイ!)

じゃあなぜそこまでしてスタバに行くのか。
バカなのか。そうだ、バカなのである。


私は見栄を買いにスタバに行っている。


「スタバでMacを開いている」というのは、オシャレを気取って仕事をしているように見せかけていると揶揄する代表的なセンテンスであるが、まさにその通りなのだ。

私はスタバでMacが開きたいのだ。

そう私はドヤ顔スタバMacがしたいのだ。



スタバの提供する商品の値段の高い理由を、どこかで聞いた。あれはなんとかフラペチーノの原材料だけじゃなく、スタバのお洒落な雰囲気、接客全てを含んでの値段なのである。

スタバのカップは可愛い。時には店員さんが気持ちを込めたメッセージを書いてくれたりなんかする。店内も店によってこだわりのあるデザインがあり、入った人をウキウキとさせてくれる。

それらよって生まれる効果が、女子を輝かせる演出である。

新品のフラペチーノを持って、友達と自撮りをしてSNSに女子会の投稿をして、「スタバの新品に目がない甘いものが大好きな私with友達」を演出することが出来る。

勉強をしながらスタバの商品を右端に置いて勉強の様子と商品を写真に収めてSNSに投稿して、「勉強もスタバでオシャレにこなすことが出来る私 」を演出することが出来る。

皆、涼しい顔をしてスタバに入りながら、自分を彩るための演出として、スタバを利用しているのではないかと思う。

こんなことばかり言っていると
「ふざけんじゃねぇよスタバ好き舐めんじゃねえよ泥女!!」「一生泥水すすってろ!!!」
とスタバ女子から暴言を吐かれてもいいことを言っている気がするが、私は決して馬鹿にしている訳では無いのだ。


言わせてくれ。

「見栄はり上等じゃん!ドヤ顔でスタバMacしようよ!」って

わたしは人から見られている自分の像を意識しがちな人間である。「こう見られたい」という像は、本物の自分ではなかったりする。
「カッコイイですね!」と後輩に言われたりする。「ねえさん」と周りから称されることがある。私は人より声が大きい方だし、その分周りを仕切ってしまったり、初対面で緊張すると返って強めな物言いをしてしまうことがあり、気が強くてバリバリ仕事をする姉御肌なイメージをもたれることがある。悪い気はしていない。度重なる偏見だが、「姐御肌っすね!」と呼ばれるタイプの人間はおそらく、「姐御肌」と呼ばれることに一種の喜びを覚えていると思う。

本当の私は末っ子基質で、甘えたがりで気も弱いし、引きこもって人に依存しがちな所がある。頭もそんなに良くないし、出来ることなら仕事もしないで延々ふざけたことを言っていたい。

「一人で生きていけそうですね」なんて言われて「なんだそれ」って笑い飛ばして、帰ってもう1度思い返して「なんだそれ」って小さく呟いたりする。

でも、本当は「一人で生きていけそうな強くて姐御肌な自分に憧れている自分」もいたりする。人から言われた印象に勇気づけられて、気を強く持てたりもする。

人から見られた自分と、自分が思う自分、どっちが本当の自分かなんてわかりはしないのだ。

私は偶像の自分自身に助けられているのだ。





スタバMac上等じゃん。
なりたい自分になるために、着飾ったっていいのだ。
重い鎧を。綺麗な仮面を。右手にフラペチーノを。


明日も私はスタバに泥水みたいな見栄を買いに行く。
飲み終わったあとは、気分悪くなってCCレモンをガブ飲みする。

「プハーーーーーー!!!!スッキリした!!!!」

つってね。

奇跡が起きてラジオに出れた話

「主張大会に出てみない?」


中学生の時、先生にそんな提案をされた。
主張大会とは、市の中学生が参加して原稿用紙何枚分かの自由なテーマの主張を各々がステージの上でマイクをもって客席に向かって投げかけるという大会で、うちの市ではわりと始まって間もない大会だった。

「え・・・?わたしがうちの中学代表で出るってこと?」

先生はそうそう、と頷いていた。
〇〇(私です)ならやってくれるだろという期待と信頼のあつい眼差しをわたしにかけまくっていた。

おいおいおい、勘弁してくれ。

と口には出さないがそう思った。



うちの中学は市内でも有数の荒れた中学で道路に向かって生卵が投げられたり、消火器で廊下を真っ白にした挙句その上を不良が自転車で走り抜けていくのを、先生が木刀もって追いかけ回すみたいな学校だった。
ステレオタイプのやばい学校である。


その学校で文芸部かつ図書委員で大人しく生活してるのだからまあそれなりに相対評価は高めだったのだろう。私は前からよく色々なことを先生から頼まれる生徒だった。家が真逆の方向にある不登校の子の家の訪問とかをなぜか頼まれてしていたし。
話したこと無い相手に「はは・・・久しぶり」とプリントを届けさせられるこっちのみにもなってくれ。


で、何度目かのムチャなお願いがこの主張大会だった。


こんなに荒れた中学校で主張大会なんか出てなんの業績を残そうって言うんだよ。と思いつつ、私はなんやかんや了承していた。流されやすいし、断れない少女である。

先生と主張のテーマを決めることになったが、私は主張したいことのテーマが何も思いつかなかった。
強いて言うなら好きだったTOKIO国分太一が中二で初彼女を作ったというエピソードを知っていたため、その時の私は「一刻も早く彼氏をつくって処女を捨てなければ」というなぞの強迫概念で頭がいっぱいだった。
べつにお前が処女を捨てようが捨てまいが太一くんには関係がない。

大観衆の前で「国分太一くんと同い年で初恋人が作りたいです!!!」
とマイクの前で主張したら私の中学のヤバさをさらに裏付けることにしかならないので、私の心の中の主張は心の中にしまい、主張のテーマは「挨拶の大切さ」に決まった。
なんだそれ。


その日から私は挨拶の大切さを裏付けるために、近所の人に会うと挨拶をするようになった。
「おはようございます!」
自分の脳内では、爽やかな少女が明るい笑顔で元気よく挨拶をしていた。
「ぉはょうございますぅ・・・」
実際には、幸の薄さが全面に出た顔の少女がぎこちない笑顔で恥ずかしそうに挨拶をしている。
誰か無理すんなと言ってやってほしい。

人間関係は鏡のようであると言うが、挨拶もそうであった。
気持ちの良い挨拶をすれば気持ちの良い挨拶が返ってくるし、気持ちの悪い挨拶をすれば気持ちの悪い挨拶が返ってくるか、無視をされる。

私が自分のことを「やべぇ奴だ」と思っていれば、向こうももれなく「やべぇ奴が挨拶してきた」と思うのだ。当たり前だ。


そんなことに気づきつつも、恥ずかしさが抜けないまま挨拶を続け、結局心の底から気持ちの良い挨拶は出来ないまま、主張大会の日にちは迫っていった。




そして主張大会当日。

私は元々大きな声を出せる体質だった。
腹から声を出そうとしなくともそれなりに大きい声は出せるのである。
なので、練習中も大きな声を出すことに対しては、誰からの指摘も受けることなく、そのままの調子でやれとだけ言われていた。

当日に強いのか、その日は練習よりも伸び伸びと声を出すことができ、抑揚も自然に作れていた。

「わたしはこれからも挨拶で人を元気にしたり、自分も元気をもらおうと思います!」

そんなことを私は笑顔で言い放って、主張は終わった。
明らかに調子が良かった。




結果的に、
30校ほど参加していたその大会で、
結局私は銅賞を取ってしまった。





(チョッロ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜)




あまりの呆気なさに私はそんなことを思っていた。
性格が悪い
確かに校長や教頭の前で何度も練習をしたり、努力もしたが、努力すれば結果が出るという事実になんだか妙に呆気なさを感じてしまったのだ。




銅賞から上の賞を取った人たちはその後色々なイベントに呼ばれた。隣の市まで表彰式に行ってもう1回主張をしたり、高そうなホテルで発表会をしてめちゃめちゃ旨いカツカレーを食べたりした。自分の能力にそぐわぬ目まぐるしい展開に圧倒され、私はカツカレーが美味しかったことしか、覚えていない。


そして、さらに信じられない出来事が起きた。



地元局のラジオ番組に数分出演することになったのだ。




私は“ラジオ”というものがとても好きだった。スイッチを押すと、夜中でも昼間でも誰かの声が流れてくるということがすごく画期的なことに思えた。好きな番組はカセットテープに録音し、好きなタイミングにテープが伸びるまで何度も何度も聞いたりしていた。

今でもネットラジオを死ぬほど聞いている。
私にとって“ラジオ”というのは今でも少し特別なものなのだ。



そんなラジオに出ることになってしまった。



番組自体は聞いたことがなかったが、その局のラジオ番組はたまに聞くこともあった。
部屋に入ると、数本のマイクが机の上から伸びていた。そして、わたしにそのマイクが向けられた。


「こんにちは」


声は震えなかったけど、震えていたような気がした。

その後少し喋って、主張の内容も要約して話したりした。

気の利いたことも喋れなかったし(誰も中学生にそんなことは求めていない)、本番のような抑揚もうまくつけられなかった。


「これからも挨拶をしていきたいです。」



主張大会当日より何倍も緊張した時間は、あっという間に過ぎていった。






何日か後にラジオが放送されるのを聞いた。カセットの録音ボタンは押さなかった。

ラジオの中で私はとても自信がなさそうに、自分の主張をしていた。
私の声はこんなふうに人に聞こえるのか、となんだか恥ずかしくなった。



銅賞を取った時、なんだか呆気なく思ってしまったのは、私が挨拶の大切さのことなんか別に主張したくなかったからだと思う。

数日間なんとなく挨拶をして、大会が終わってからはそこまで挨拶なんてしていなかった。
挨拶の大切さを心の底からのうたう少女など、そこには存在していなかったのである。


私は主張大会で適当なでまかせを声に乗せて客席に届けていただけだった。
私は自分が、思ってもいないようなことを爽やかな顔でスラスラと口に出せる人間なのだと、分かった。

ただ、大好きなラジオでは嘘が付けなかったらしい。
私は自分がどんな場所でも器用に嘘がつける人間ではないのだと、分かった。






悪いことが起きた時しか開かれない、中学校の全校集会で、私の名前が呼ばれ拍手をされた。皆「なんだそれ?」という顔をしていたし、その後の2階の渡り廊下から来客用のスリッパを誰かが大量にぶん投げたという学年主任からの報告で、その絵面を想像した生徒から思わず笑いが起こり、「笑ってる場合か!!」との生徒指導からの一喝で体育館は静まり返っていた。
当然だが、私の主張大会の話など誰の記憶にも残らなかった。



それでよい。
この学校はそれでよいのだ。

それに、あんな恥ずかしい主張はもう誰の前でもしたくはない。




万が一何かのラジオに出る機会が今後の人生にあったら、心の底からの主張を声に乗せて放ちたい。



「太一くんが結婚した年齢までには結婚してぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」



おわり。