リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

つぶやくということ

Twitterが好きだ。

小学生からずっと日記を書き続けていた。
TOKIOがその時から大好きだったので、大好きなTOKIOの絵を添えて、絵日記のような形式でその日あったことをキャンパスノートに書きまくっていた。

日記帳は全部取ってある。最初に始めたのは5年生の時。1冊目のノートの裏表紙には「絶対に見るな!見たらお前はどうなるか分からないぞ」という文がおどろおどろしく書いてある。なんて物騒な小学生だ。
別に中身は見られたって大したことがない。犯行予告が書いてあるわけでもあるまい。
その時の友達との会話。少し気になっていた男の子の話。
でも誰にも見られたくはなかった。

その中の文は私だけの文で、ノートの中は私だけの世界だった。

ブログという文化をわたしはあまり知ることがなかった。家にあるインターネットではTOKIOのファンサイトをめぐり、同い年の子が書いているTOKIOブログにいつもコメントをしていたというくらいだった。
のちのち、テキストサイトが流行っていたことを知り、リアルタイムで面白い人たちの文章が見れなかったことを死ぬ程後悔することになるのだが、私は私の中だけで大体のことを完結してしまっていた。

自作の漫画もたくさん描いていたが、姉くらいにしか見せなかった。小説も自分が書いて、自分で読む。
日記を誰かに見せるなんてもってのほか。
私の創作意欲は、私のためだけに使われていた。


高校の時、携帯を持つようになり、Twitterに出会った。
好きな文を好きなだけ呟く、というコンセプトが気に入って、すぐにアカウントを作った。
Twitterをするようになってすぐ、サカイエヒタさんという人を見つけた。
エヒタさんは今はライターをしている。(当時もしていたかもしれないが、その時の私には何をしているのか明確に理解出来なかった)
エヒタさんのツイートが大好きで、エヒタさんが運営しているアカウント、血液型bot、笠井あい、などは全部フォローして文字を辿っていた。大人っぽくて、でもたまに狂っていて、とってもカッコよかった。

その当時、同い年の子たちは大体mixiやデコログなどのSNSをしていたが、Twitterをやる子も少しずつ出てきていた。
そして、「〇〇もやってるんだ!フォローしていい?」と言われることも増え、私のTwitterのフォロワー欄は徐々に高校の友達の名前が埋まっていった。

エヒタさんの言葉で溢れていたタイムラインには、友達の日常だったり、恋の悩みなどが流れるようになった。
独り言のように、エヒタさんの真似ごとみたいな言葉をつぶやいていた私は、段々人に見られるということを意識して文を打つようになった。

時には、友達のツイートにリプライを送って、学校では話せないことをワイワイ話したりした。
自分のツイートを見た友達が、学校でそのツイートのことについて触れ、共有してもらった嬉しさに胸を踊らせることもあった。



楽しかった。




もうその時には日記はほとんど書いていなかった。




私は誰かに認めてもらうことが嬉しくなっていた。呟きを、書いた絵を、小説を。


自分の中だけで楽しんでいたノートの中から飛び出して、誰かと楽しさを共有する幸せに気づいてしまったのだった。




大学生になるともっともっと、Twitterは流行っていった。日常を楽しんでいるリアルが、そこらじゅうに流れていた。
私はそこに「誰かがいる」ということに慣れてしまった。


思えば、日記を書いていたあの頃の私は1人で生きるのがとてもうまかった。
好きなものが沢山あって、自分で楽しいことを見つけ出すのもうまかった。きっと誰ともつながれなくても、1人で楽しく生きていけたんだろうと思う。



独りよがりで閉じこもって、一人で解決してしまう私。


誰かの言葉に安心して、無意識に誰かを頼る私。



どっちが寂しくて、どっちが強いんだろうか。






そんなことは置いといて、最近リスト機能を上手く使いこなして、リアルの友達と、大好きなツイッタラーのツイートを分けて見て楽しめるということに今更気が付いた。


Twitterたっのしーーーーーー!!!!!




あの頃の私と、今の自分がどう違うとか、そんなことはどうだっていい。
ノートの中であっても、Twitterの中であっても、私は私でしかないのだ。
その事実をどう思うかも、自分次第でしかないのだ。
独りよがりだって、誰かに依存したって最終的な判断は、いつも自分に託されているのだ。



twitter.com

twitter.com



一つだけ思うのは、またエヒタさんあの頃みたいなツイートして欲しいなってことくらいだ。

それだけ。

韓国のアカスリに行ったら地獄だった話

大学の友人8人で韓国のソウルに行ってきた。
今回話したいのは、そこで経験したアカスリの話である。

元々、NANTAという日本でいう吉本新喜劇のようなショーを見ることになっていたが、ガイドさんにアカスリを紹介され、NANTAよりそっちに興味が出てしまった私は、他の6人とは別行動でもう一人とアカスリに行くことにした。アカスリに行ったもうひとりをRとする。

「すごくよかった〜〜!韓国のアカスリ最高〜!」
みたいな美容ブログのレポがやりたい訳じゃないので、店の詳細は出さずに書いていきます。美容とかね、そういうんじゃない。そういうんじゃないんだ。


これは真実を伝えたいがための衝動的な記録である。


6人とは別れ、2人で送迎バスに揺られながら連れられて行った店に入ると、肌がツルッツルのテンションの高いオバチャンが出迎えてくれた。



まず狭い部屋でオバチャンに美容のカウンセリングを受けた。カウンセリングっていうか要は予約してるプランに加えて他のプランもやりませんかっていう勧誘である。

友達と2人で「ほうほう」と一応うなすぎつつ、「でも・・・お高いんでしょ〜〜〜」と言った感じでなんとか切り抜けた。セーフセーフ。

私のほっぺたを触ってきて「オネェサン、肌カサカサだと思ったけどやっぱりカサカサダネ〜〜〜」って言ってきた時には手が出るかと思ったけどセーフセーフ。「ふっ」って得意の鼻鳴らしで乗り切ったからセーフセーフ。



カウンセリングが終わったら胸から巻くタオルみたいなのと髪を入れるキャップを渡されて、「裸になってこれ来て出てきてくださ〜い」ってオバチャンは言う。

個室で着替えてみたらあまりのマヌケな姿に思わず笑ってしまった。
私もRもそこまで出るところが出ていないので、タオルに隠された所がなんの凹凸も出ずストーーーンっとしていた。ちなみにRの許可もなくこんなことを書いているのでバレたら縁を切られるかもしれない。
「え?まじでこの姿で出るの?」
って思いながら2人で部屋から店のフロントに通じてる道に出る。今他のお客さんが来たらこの恥ずかしい姿を見られる。
全身が平野構造になっているのがバレる。

と思ってたら割とすぐにオバチャンが帰ってきて、撮影スペースみたいなとこで、申し訳程度にチマチョゴリを着させられて写真撮影をした。


ノーブラノーパン化粧直しなしの強制チマチョゴリ撮影である。


そうこうしてたうちに友達と2人でだんだん一つの思いが強くなっていく。




「なんかおもてたんと違うぞ・・・」




無料チマチョゴリ撮影サービス!とは書いてあったが、まさかアカスリ前にこんな急いでやるとは思ってなかった。
いやまあまあまあ無料サービスだしね。こんなもんよ、こんなもん。
とりあえず韓国のアカスリに期待を膨らませるべく、余計な不安はかき消しておく。


そしてそっから頼んでいたアカスリのプランに入っていく。

さっきまでの肌ツヤツヤのオバチャンとは変わって、黒いTシャツに身を包んだ、さっきより歳がいったオバチャンが大きな銭湯みたいな所で出迎えてくれた。あまり日本語は話せないようだった。


タオルに身を包んだまま、まず95度のサウナに私たちは無言で入れさせられた。



始まったな〜とワクワクして、Rと「あったかいね〜」などと会話を交わしながらしばらく過ごした。サウナ内には時計がない代わりに砂時計がひとつあった。しかし、入った時逆さにされることはなかったため、時間の経過を知らせてくれるものは何も無かった。


「ん?これいつ出ればいいの?」


無言でサウナに入れられたから、何分後に出ればいいのかも分からない。そして何分経ったのかも分からない。まあきっと時間が来たら呼んでくれるんだろうと思ったが、呼びに来ない。


「あれ?もしかしてこのまま殺される?私たち」


と2人でこれが韓国の洗礼かと訳の分からないことを考えながら、とりあえず1回出てみようということになった。出てみたら黒Tのオバチャンが3人に増殖していた。無言で私たちをサウナにぶち込んだオバチャンがどのオバチャンか見分けが付かなかったが、1人が水を私たちに差し出してくれた。


「なんだ〜〜〜我慢せずにさっさと出れば良かったんじゃ〜〜〜ん」


と2人で言いながら水飲んでいると、オバチャンに「ノンダライッテネ」と背中を押され、もう一回灼熱のサウナに放り込まれた。


そして確信した。


なるほどこれは地獄だ。


地獄へ行く前に、最後の思い出としてチマチョゴリを着させられ、そこからは永遠とこの灼熱のサウナに私たちは焼かれ続けるのだ。


「地獄と考えたらまだマシやね・・・生きてるし・・・」
「うんまだ生きてるね・・・」


地獄と考えたら気分が楽になるという謎の精神状況で、もう座るのも限界になった私たちはサウナの中で汗だくで寝転んでいた。

もし外から鍵をかけられて閉じ込められたら、あのよく分からない置物でサウナの窓ガラスをぶち壊して2人で脱出しよう、という話し合いを大真面目にしていたが、途中からそんなことを言う余裕もなくなって、完全に意識が朦朧としていた。


あともう少しで死ぬという所で、黒Tのオバチャンが呼びにきてくれた。
「良かった。ここは地獄じゃなかったんだ」と思いながら、促されるまま身体を冷やしていると、次は65度くらいのサウナに入れられた。


またサウナかい。


「まあでもここはまだ耐えられる地獄やね」と2人で話す。
もう地獄以外で形容しなくなってる。


そのサウナも耐えられなくなって出ていくと、次は汗を流して風呂につかれと言われる。
最初入った時は極楽〜〜〜と思ったが、耐えられなくなって、出たら「アカ!デナイ!モットハイッテ!」と黒Tオバチャンに強制的に風呂に戻される。
やっぱり地獄である。


温泉とかサウナとか普段好きで結構行くんだけど、人に強制的に入らされるのってなかなかしんどいんだということを知ることが出来た。いい発見。



そうしているとようやく、「オキャクサマ〜」という声が奥のカーテンフロアから聞こえる。

ようやくだ・・・今までの地獄はアカを出すためには仕方の無い犠牲だったのだ。ここからようやく身体を綺麗にしてくれる。
期待に胸を踊らせカーテンを開けると、黒Tだったオバチャン2人が、なぜか黒いブラジャーとパンツになって立っていた。


なぜだ。

なぜお前たちがそんなセクシーなランジェリーを身にまとっているんだ。

これから一体何が始まるんだ。



オバチャンの身体は出るとこ出ているが、本来出なくても良いところも全部出ていて、そんな身体で黒下着を付けているのでものすごい迫力である。

タオルを身にまとった平野構造の私たちと全身が脂肪という脂肪に包まれたセクシーランジェリーのオバチャンとの間に、絶妙な空気感が漂う中、オバチャンは「裸になってココにねてクダサーイ」と言ってきた。

裸になりながらRが「私たちが裸になっても恥ずかしくないように、向こうもギリギリまで脱いでくれとんやろか」と耳打ちしてきた。
いや、そんな気遣いはどう考えてもいらない。
アンタらは脱がなくてもいい。


セクシーランジェリーの真相は謎のままついにアカスリは始まった。


アカスリはゴッツイ岩みたいな硬いものを身体にゴシゴシ押し付けていくみたいな感じで、死ぬほど痛かった。
そして時々オバチャンの色んな柔らかい所が当たったり目の前に広がったりしていた。新しいタイプの地獄である。

でもやっぱりサウナで毛穴を開き切っただけあってものすごい量のアカが取れていた。
これが目的だったけど、あまりの量のアカに普通に引いた。アカの蓄積量ってすごい・・・。


アカスリが終わると、顔のキュウリパックをした。なぜキュウリなのかと問われたら、めちゃめちゃ水分含んでるからじゃない?としか答えようがない。

そしてオバチャンがオイルをかけてきて、全身オイルマッサージが始まった。
黒下着のセクシーなオバチャンに、裸でオイルをかけられて身体中撫で回されるという新感覚の地獄を味わうことが出来た。
なんとも言えないけど、アレである。
世界のどこかにはこの状況を、他に変えようのない天国だと評する性癖をお持ちの方もいるんだろうなと思った。


ボーッとしてたら「パンッパンパパンっ!」
という音が聞こえてきた。
横を見てみると、Rがお尻を軽快なリズムで叩かれていた。

あまりにも軽快に叩くので、今まで笑いを堪えていたらしいRは「ぶふっふふふっ」と笑っていた。
そしてそれにつられてなぜかオバチャンも「フフフ」と笑っていた。

響き渡る「パンパンパパン!」という尻を叩く音とRとオバチャンのほくそ笑む声。
よくわからないけど言語の壁を超えた瞬間だと思った。

その後もう何回かサウナに入ったり泥パックをしたりして、プランは終了した。



肌を触ってみると、なんとなくツルツルして綺麗になった気がしたので、Rに同意を求めたら、Rは「アカスリが痛すぎて全身がカミソリ負けしたみたいにブツブツしとるわ」と笑っていた。どうやら元々肌がそんなに強くないらしい。

なんでお前アカスリやろうと思ったんだよって言ったら「面白いかと思って・・・」と言っていた。なるほど。確かにめちゃめちゃ面白かったので、Rにとっては大満足の結果だっただろう。



以上が私が経験した地獄アカスリである。

アカスリ自体が始めてなので、「日本でやってもそんな感じだよ〜〜!」と言われるかもしれないけど、異国の地で経験するという不安や恐怖を踏まえて、地獄だったと評させてほしい。私は肌が綺麗になったので満足です。



最高のエンターテインメント、それが地獄アカスリ。。。



これを見て「韓国行きた〜〜い!アカスリやりた〜〜い」と思った美容系の人ははぜひ行ってください。
6500円でした。高いと思うか安いと思うかはあなた次第です。



ソウルは物価が安くて爆買いするには最適な街でした。出店で「ニセモノたくさんあるよ〜ニセモノしかないニセモノ天国だよ〜!」と声をかけられた時にはさすがに笑いました。

ニセモノもあるしニセモノ以外もある都会。




楽しかったです!!!!!!!!

私と東北の「絆」

今日は、自分と東北について書こうと思う。

2011年3月

世間でやたら、「絆」という言葉が使われだした。




東日本大震災
日本周辺における観測史上最大となったその地震は、それに伴って発生した津波とも相まって大規模な被害を呼び起こした。

地震が起きた直後、私は高校生でテスト週間が終わり家に帰宅した直後、テレビで津波の実況を目にした。
目の前に広がる映像に、私にはどうにも現実感を感じられなかった。他人事のようにしか感じることが出来なかった。
そして私は、テレビを消し約束していた友達と遊びに行った。
私は蓋をしたのだった。そして、何事もなかったように、遊んだ。

家に帰ると状況はさらに大変なことになっていた。どれも臨時放送に切り替わり、余震を伝える警報が鳴りやむことを知らず、テレビの中は騒然としていた。自分が蓋をしたものが、何だったのか徐々に実感することができた。

「あの中には人がいたのか」

非現実として捉えていた映像が、もう一度脳裏に焼き付き、そこからずっと、離れることはなかった。




時間が経つにつれ、全国のボランティアの受け入れも始まり、世間で「絆」という言葉をたくさん耳にするようになった。

「今こそ日本の絆を大事にしよう!」
「助け合いの心を大切に」
「立ち上がれニッポン!」

そのような言葉が色々なもののキャッチコピーとして流行っていた。

自分自身、高校で生徒会に所属していたため、東日本大震災の募金活動を駅前で何回も行った。

「私たちは東日本大震災を忘れません!絆を大切に!」

声を出しながら、心のどこかで何言ってるんだろうと思っていた。




あの時、地震が起きていたことを知っていながら、遊びに行った人は私のほかにどれくらいいたんだろう。

現実に蓋をして意識的に見ないようにした私と東北の間になんの「絆」があるんだろう。



どういう過ごし方をしていたら良い、悪いという問題ではない。


「絆」なんて言葉を安易に使うのが、私にはどうも耐えられなかった。





大学に入り、縁があって、東北の支援する学生団体があることを知り、ずっと東北のことが気にかかっていた私は、すすんで所属することになった。
その活動の中で、2回宮城県岩手県に足を運ぶことができた。
あの時、とても遠く感じていた東北に、4年の時を経て初めて行くことができた。


あの日脳裏に焼き付いていた映像の場所には、何もなかった。
ただただ、広い土地が広がっており、土地の高さをかさ上げするための盛り土がたくさんあった。
一歩一歩踏みしめるように私は歩いた。


被災者の語り部の方ともたくさんお話をした。

「自分たちのつらかった思いをわかってほしい」という人
「もうあまりかまわなくてもいいから放っておいてくれ」という人
「被災地としてじゃなく、この街自体の魅力を知ってほしい」という人

いろんな人の話を聞くことができた。

被災地に住む自分たちと同世代の学生と交流することもあった。
被災地に住んでいるからこその話を聞けるのかと思っていたが、そんなことはなく、彼らとしたのはたわいもない話ばかりだった。肩透かしを食らったようだったが、それが当然だとも思った。

彼らは日常をそこで楽しんでいて、私たちと変わっているところは何一つなかった。



「被災者」とか「被災地」とか、記号付けをされていることの意味を考えた。

過去に起きたことを、忘れないためという目的はあるとは思う。
しかしそれとは違って、私が再び東北に足を運びたいと思う理由として、「またあの人に会いたい」「またあの美味しいご飯が食べたい」という想いがある。

そこには、もう「被災地」「被災者」という呼び名は存在せず、ただ個人同士の関わりや、東北そのものへの土地への愛着があるのだ。


それを踏まえた上でもう一度、「絆」って言葉を咀嚼してみたら、なんだか少しは納得できた気がする。






言葉は難しい。


だからこそ、安易に使いたくない。






高校生だった時の私は少し考えが凝り固まっていたかもしれない。
でも、今も「絆」なんて言葉使うのなんかこっぱずかしいし、何様だよって思っちゃう。

それぞれの形の絆があっていい。それを否定することはない。
東北もこれから形を変えていくし、自分だって、10年後には今の自分ではなくなるだろう。
だからその都度、自分が納得する関係性を作っていければいい。



だから、今の自分が考える東北との絆は、

「またあの笑顔のかわいいオバちゃんが作っためちゃめちゃ美味しい海鮮丼が食べたい」

ってくらいでいいのだ。






あれ、ほんとうまかったなあ。

愛なんか生まれない日々

今日は、宴会コンパニオンのことについて話そうかと思う。

宴会コンパニオンとは、
旅館などに来るお客様に対して、お酒を注いだり会話をしたりして、宴席を盛り上げるお手伝いをするスタッフのこと。
制服は、バスのガイドさんのスカートを短くしたみたいな服を着てる。(事務所による)

私は昔そんな宴会コンパニオンで働いていたことがあった。なんといってもお金が欲しいから。時給が良いのはやはり最大の利点である。大変なことも多く辞めたいと思うこともたくさんあったが、なんだかんだで学びが多く振り返ってみると、やって良かったなと思ったりもする。

今日はそのことを話そうと思う。「今日は」って言ったけど、言いたいことが多すぎるので、また話すかもしれない。
ちなみに日記のタイトルは席で死ぬほどデュエットさせられる「愛が生まれた日」という曲から取っています。
愛なんか生まれるわけねぇだろタコ。

というわけで、今回言いたいことはコチラ。




「おじいちゃん、何言ってんのか全く分からない問題」



まあこれは、きっとこの職業じゃなくても言えることなんだろうけど、「会話」というコミュニケーションが職業柄重要になってくるので、話が通じないというのは大変な事態なのだ。

この仕事をしていた当時私の中で、決めていた会話の流れとして
「今日はどこから来たんですか?」
という質問から始まって交通の話、この地方の話、自分の地元の話、という掴み方があったのだが、まずその最初の質問が聞き取れない。




私「今日はどこから来たんですか?」
客「ほにゃほにゃにゃ」
私「へぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」




どこだ。
推測しようにも一文字も聞き取れていないので「へぇ〜」としか言いようがない。このままではまずいので何とかして、予想して会話をつなげる。




私「じゃあ〜ここまでバスできたんですかね?」
じいさん客「はぁ〜???」




あれ?
今おじいさん「はぁ〜?」って言った?選択肢ミスった?
飛行機?飛行機が良かった?ねぇジジイ飛行機が良かったの?

意思の疎通が全く取れないまま会話がストップしてしまうので、まずいと思い、隣のお客さんに助け舟を求めてみる。





私「あれ?皆さんの住んでる所からだったらバスじゃないですかね〜?どうやって来たんです?」
隣のジジイ「ほにゃ〜ほにゃほにゃ」





お前もしゃべれねぇのかよ。


おいどうした全員入れ歯外れてんのか。
それどうやってお互いコミュニケーション取ってるんだよ。

そう思ってたけど、その入れ歯外れコンビは仲良く普通に話してるっぽい。
なんで分かるの?
やっぱり長年一緒にいるとなんとなく分かっちゃうの?
それとも本当は聞き取れてなくてお互い会話のボールをぶつけ合ってるだけ?

あ、後者だわ。絶対後者。
どう考えても2人会話成り立ってないもん。


そしてしばらくすると、最初は一文字も聞き取れなかったほにゃほにゃ語がなんとか、単語単語までは聞き取れるようになってきた。
そこまでいったら大体大丈夫。



ジジイ「ほんにゃ〜ほにょがにてのぉ〜ロシアがなんにゃほん〜」
私「うんうん・・・あぁ〜ロシアがね・・・うん」



と、聞き取れた一つの単語をもう一回繰り返して相槌を打てば大体聞いてる感じが出る。
繰り返し方は、相手の話し方によって変える。

なんだか真面目そうな話だったらものすごい神妙な面持ちで噛み締めるように「ロシア・・・か・・・」と言えばいいし、
笑い話っぽかったら「ふふっ!ロシア!確かにw」とか軽く笑っといたらOKである。

ロシアがどうしたとかは全く分かってない。
分かんなくてもいいから、とりあえず面白そうにしてたらいい。最悪、会話の最後に「勉強になりました」って付けとけば、もうなんとでもなる。

これは宴席で行われる「適当」という名の最大の処世術である。



この「適当」の処世術が役に立たないのが、訛りがキツい地方のお客さんである。
言ってしまえば東北地方のお客さんだ。


個人的には、今まで何回も訪れているくらい東北のご飯や人の温かさに私は魅了されているのだが、東北でもさらに訛りのキツい地方の方は本当に終始何を言っているか分からない。

しかも今まではおじいさん限定だったのが、集落によっては若い人でも何言っているのか全くわからない。

「だんだかだん」しか聞こえない。「だんだかだん」しか。
お客さんが誰かに「だんだかだん?」って聞けば
「だんだかだん」って返してるし、
それを聞いて「だんだかだんww」って笑ってる。

だんだかだん博物館で展示を見ているみたいな感じ。あ〜こういうだんだかだんもあるんだ〜!って楽しくなっちゃうわけ。


もうそうなると私の必殺技の単語繰り返しが使えない訳である。
「なるほど」とか「うんうん」とか言いながらニコニコするしかなくなる。

宴会コンパニオンの仕事は会話が重要とか最初言ったけどもうニコニコ相槌マシーンでしかなくなる。


そうなると、出てくるのが旅館の女将ね。
「もうちょっと会話ちゃんとしなさい!盛り上げなきゃ」とか言ってくんの。

なんだよ!じゃあアンタやってみろよ!
旅館に勤めてウン十年のアンタなら、こんな場面なんてヘッチャラなんだろ!?「だんだかだん?」って相槌打つ手本見せてくれよ!!


ほんでなんなんだよその髪型!!

頭にウンコ乗せてるじゃん!!!!

盛りすぎだよ!!!何センチ上に伸びてるんだよ。
しかも全く崩れる気配がないの。
何時間かけてセットしてるんだよ。

言ってしまえば湯婆婆そのものじゃねえかよ。

「地方の温泉旅館に湯婆婆はいた!」って取材されていいくらいには化け物レベルで湯婆婆と競ってるよ。


ほんで、大体二時間の宴席があってその後は延長が取れたら、二次会のラウンジに移動する仕組みになっている。
湯婆婆が見送る中、コンパニオンはオジサンたちを連れてエレベーターに乗ってラウンジに行くわけだ。

ラウンジについてお客さんのお酒を頼もうとカウンターを見る。

湯婆婆がいる。

え?瞬間移動した?

しかも着物も着替えてゴッツイうんこ頭も少しほどいて柳みたいになってるし。いつそんな時間あった?
さっきまで貼り付いた固い笑顔で見送ってくれてたじゃん。物理的に可能なの?そんなこと。

呆気に取られてたら、「大丈夫?あんまり飲み過ぎたらだめよ。頑張ってね。はい、これアンタたち用の!」
って焼酎のウーロン茶割に見せかけた、ウーロン茶を水で割った奴を湯婆婆は出してくれた。

え?なに?急に優しくなってない?
湯婆婆のくせにほんのりあたたかさを感じてしまって悔しい。ゴッチゴチに固められてる髪をほぐしたら、頭までほぐされたの?

物理的にも、人格的にもどう考えても別人にしか思えない。双子でもいるのか。

双子・・・?


もしかして


もしかしてあなたが・・・




はい。

今回言いたかったことはこっちです。
「地方の温泉旅館に湯婆婆と銭婆は存在した。」


以上。

桜の樹の下には

もうすぐ春が来る。

季節の中で春が好きという人は多いだろう。
出会いと別れの季節で大きく感情を揺るがされ、温かさに包まれて人は幸せを感じる。
満開の桜に酔いしれ、気分が高揚する。

春は居心地がいい。ポカポカと晴れた太陽の下で、芝生に身を投げ出すと、解放感に満ち溢れる。

春は好きだ。

でも、なんだか、
不安になる。

冬の寒さに凍えてた何ヶ月か前と打って変わって、そんな急にぽっかぽかになって多幸感を感じてバチが当たるんじゃないかと思ってしまう。


特にこわいのはお花見。
桜の樹の下で、綺麗な桜を見ながらどんちゃん騒ぎである。酔っているのはお酒だけにではないだろう。桜には妙な快楽物質が含まれているのではないかと思う。と、すると私たちは春を楽しんでいるのではない。春の快感に中毒になっているのだ。と、今まではそんなふうに思わざるを得なかった。



そしてそんな歯痒さを解消してくれる答えと出会った。
その答えはある本の中にあった。


梶井基次郎の『櫻の樹の下には』という物語。
梶井基次郎といえば、『檸檬』が有名であるが、この人の書く文章の頽廃的な空気感に私は心底惚れている。『櫻の樹の下には』はページにすると4ページ程で終わってしまうとても短い短編である。

この本の冒頭を見て、私は心を打たれた。




──櫻の樹の下には死体が埋まっている!──



言い切った。

言い切ったのだ!

残りのページもずっとそのことについて書いてある。「だから桜はあんなにも生き生きと美しいんだ」と、主人公は信じてやまない。
妖艶たる美しさのその底に惨劇を用意することで、満足しているのだ。


たったの4ページで私の心は、完全にこの考えに魅了されていた。なんだか納得せざるを得なかったのだ。

何かがおかしいと思っていた。
春はあまりにも幸福を連れてくる。
なんだか不自然にも程がある。
無抵抗に幸福を受け入れることに抵抗感を感じる。

そんな私の疑問を、この物語は解決してくれたのだ。


私は、たくさんの死体の上に立ってこの景色を見ている。

血を啜りながら、桜を、春を楽しむ。


たくさんの犠牲の上に立ち、
桜を「美しい」と思い、春の温かさに幸福感を感じる。
“春”を通して、いかに自分という命が恵まれたものかを知る。


「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」
「美しいなあ」「温かいなあ」「幸せだなあ」


私にとっての春は、生き残りの罪障感と幸福感、その2つがあって初めて完成するんじゃないかと思った。罪障感があるからこそ、自分の命に、やってくる春に、ありがたみを感じられるのだ。


死体は、他人のものとは限らない。
いつか知らぬ間に死んでいった自分自身かもしれない。



今こそ私は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人と同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。

頼むから死んでくれバレンタインデイ

私たちはイベントに踊らされすぎている。


明日はバレンタインデイである。
バレンタインデーの由来はわざわざここで語ることを避けるが、まあようするに想い人に対し気持ちをチョコに込めてプレゼントするというようなイベントである。チョコには種類があって、本当の好きな人にあげる本命チョコ、お世話になっている人に渡す義理チョコ、同性とか異性とか関係なく友達にあげる友チョコなどがある。

うるせーよ馬鹿!!!!!!
こうやって説明してるだけで怒りがとまらん。友チョコなどがある(キリッ)じゃないんだよ。メガネをクイッとするな!!
なんでチョコを渡すっていう行為にそこまで意味を与えられないといけないのよ。お菓子を人に渡すなんてさ、「あ、このまえ本貸してくれてありがとね。これお礼のチョコ」くらいの感覚でいいじゃん。なんか、強制的に「想いを伝えよう」っていう機会を与えられているのが息苦しくってしゃーないわ!!クソが!!

チョコ買ったりするのもさ~~~なんかこう買った瞬間に「バレンタインデーにチョコを買った奴」っていう認識が店員から生まれるわけじゃん。「あ、こいつ誰かにこれ作って渡すんだな」みたいなこと思われるわけじゃん。

いや、「誰もお前のことなんてそこまで気にしてねえよブス!貧乳!」って思うだろうけどさ。
ちがうんだって…なんかチョコ買ってる自分っていうのを俯瞰で見たらその状況自体が耐えられなくなっちゃうんです。


クリスマスにしろバレンタインにしろ、過ごし方を気にしなくちゃいけないのが嫌なのだ。

恋人がいたら、「一緒に過ごす」っていう過ごし方を強制させられて、全国何万ペアいるカップルとほぼ同じタイミングに愛を言葉や行為で確かめあったりするでしょ。なんでだよ、「好き」くらい自分の言いたいタイミングで言わせてくれよ。本来そういうもんでしょ。

恋人いなかったらいなかったで、「くりぼっち(クリスマスに一人という意)な俺!!!!!!!」っていうことをどっかで自虐的に感じながら、あえての過ごし方を考えなくちゃいけない感じがする。そしてそれを受け入れて逆に楽しくなってる感じも踊らされてる感が否めない。

気にしないなら気にしないで、「そういうイベントとかさ…どうでもよくない?普通に過ごそうよ」っていうのをアピールしながら過ごさないといけない。なんかそれもそれでダサくない?「イベントを冷めた目で見てる俺」っていうの、寒くない?

もうだから何やってもどう過ごしても自分をダセエと思わざるを得なくなっちゃうのがバレンタインとかクリスマスなんです。わたしは「やりたい生き方を選ぶ」というよりも、「やりたくない生き方をしないようにする」という人生を生きているので、そういう「今何をしたらダサいか」という自分ルールに縛られて、日々が生きづらいんだよ。うん、君の言いたいことわかるよ。全部私のせいだね。そうだね。


私のバレンタインといえば、鹿のフンにしか見えない生チョコができたり、よく言えばおはぎ悪く言えばうんこにしか見えない生チョコができたり、もうとにかく何作ってもうんこみたいなものを異性に渡すしかないって感じです。
昔付き合ってた人にケーキもどきみたいなの作って渡したら、底にサプライズで入れていたitunesカード5000円分の方を死ぬほど喜ばれたりとかそんな思い出しかない。
それ見て「このひとすっごい素直だな」と思った。めちゃんこキレたけど。「嘘でもケーキのほうが嬉しいって言えや!!!」ってめちゃんこキレたけど。

わかる?これが本物の価値よ。何時間も苦労して作ったケーキ<5分で買ったitunesカードよ。

何作ってもウンコにしかならない私はおいとくにしても、素人が作ったチョコなんて大しておいしくないに決まってるのに、「おいしいね!ありがとう!」って強制的に言わされる男性はかわいそうじゃない?それが愛ってやつなんだろうけどさあ、なんだろうな、愛を強制させすぎじゃない?


まあ、バレンタインのおかげで好きな人に想いを伝えられた人とか、今まさに明日に夢見ている人とかもいるわけだから、私の気持ちが全国の人の総意とは思わない。純粋にがんばって恋を実らせてほしいと思う。
ただ私は疲れたのだ。頼むから死んでくれバレンタインデイ。


まあでもそんなこと言ってる私、いまだに初恋の人にホワイトデーのお返しでもらったダースの空箱実家の勉強机の引き出しの奥にしまってます。


きっつ〜

相対性理論の「地獄先生」に感化されている。

学校の先生とは不思議な人種である。




家族とも友達とも違うが距離感がとても近い位置に属している。小学校から高校生において、学校という閉鎖空間に閉じ込められて生活を送る私たちは「身近な大人とは」と問われれば、先生と答えるだろう。私たちは、先生を見て大きくなり、先生を見て大人になっていく。ほかに称することはできない。「先生」は「先生」としか言えないだろう。




高校の先生に忘れられない人がいる。マツダ先生とする。




マツダ先生は大きい。身長180センチで体格もいい。俳優の田中哲司にそっくりな見た目をしている。国語の先生で、ボソボソとした喋り方をして授業中に急に「太陽に吠えろ」のシーンを持ち出して「え…誰もわからないのか」と30近く年の離れた私たちにジェネレーションギャップを今更感じて、ショックを受けていたりする。肝心の国語の授業はボソボソと喋るから結構寝てる人が多かった。


高2のときに担任の先生になって、毎日マツダ先生と会うようになった。マツダ先生は接してみると結構ぶっきらぼうで、懐いてくる生徒には「寄るな寄るな」とあえて冷たく接していた。でもぶっきらぼうみたいに見えて先生は案外面倒見が良かった。文化祭とかになったら、いつまでも教室に残って誰も頼んでないのに難しい制作物を自分の工具を持ち出して作ってたりしてた。そんなことしてる先生、ほかに誰もいなかった。少し変な人だった。でも、優しさに溢れた人だった。




私はそんなマツダ先生のことが好きだった。




「先生のことは好きになってはいけません」となんとなくどっかで聞いたことがあったし、マツダ先生は私と同い年くらいの娘もいた。だからこの想いを「恋」と名付けたらダメなんだろうなあと思いながら、好きという感情をずっと持ち続けていた。




先生のことを目で追っかけるようになった。職員室の中でも結構偉い立ち位置にいるはずなのに先生はいつもその大きな体をへこへこしていた。つくづく不思議な人だな~と思う。私は先生のことがもっと知りたかった。
私は先生にうっとうしがられるくらい先生を見かけるたび追いかけるようになった。


一時、先生の後ろを付け回して先生のお尻のポケットのボタンをはずすという遊びが自分の中で流行った。どう考えてもアウトだ。先生は「やめろ!」って少し笑いながら「オッサンのお尻なんか触って何が楽しいんだ」って呆れていた。私は変なことをして呆れられるのが好きな特殊な性癖を持っているため、めちゃくちゃテンションが上がった。


先生に会いたいから国語をたくさん勉強した。塾に通っていないため、学校で渡されるワーク以外の教材がなかった私は、教科書の指定されていない問題まで解いて答え合わせをしてもらいに先生に会いに行った。昼休憩に先生を捕まえて先生と問題を解いている時間は、私と先生だけに与えられた時間だと思った。


先生はよく咳をする人だった。風邪とかではなくおそらく喘息持ちだったと思う。激しい咳をするたびに私は見ていられなくなった。咳は、先生と私の年齢の差を突き付けているように思えた。先生に何かをあげたかった。咳が止まるような何かを。そこで私はバレンタインデーというチャンスを見つけた。基本的にお菓子を持ってくるのは禁止だが、バレンタインは先生も生徒からチョコをもらうことがあるため、先生は全員見て見ぬふりをしていた。

マツダ先生は結構女子から人気だったため、チョコをたくさんもらっていた。
私は先生が一人になったときを見計らって、チョコの代わりにのど飴をあげた。
「先生いっつも咳してるからさ!チョコよりいいかと思って、はは」
なんだか恥ずかしくて大した会話もせず、驚いた先生からの「ありがとな」を聞いたら私はその場から逃げるように去った。
後から他の国語の仲良かった先生に、どんな反応をしていたのか聞くことができた。

「バレンタインだからってチョコを許すの俺どうかと思うんだよな~、あ、でものど飴は別かな。実用的だからな。」

先生は笑いながら職員室でそんなことを言ってたらしい。
ガッツポーズである。私は先生のことを分かっている!他の女子とは違う!と自慢げに思った。


私があまりにもマツダ先生を追いかけているあまり、その噂はなぜか社会科にも広まっていた。社会科の先生たちは、私が悪い点をとったら「マツダ先生に怒られるぞ~」と茶化してきたりしていた。社会科の先生の中に、古くからマツダ先生をよく知っているミウラ先生という男の先生がいた。ミウラ先生は「俺もあのひと大好きなんだよ…あんなカッコイイ人いないよ」とかみしめるように言った。ミウラ先生は、同僚の視点から見たマツダ先生の魅力を語ってくれた。
マツダ先生は自分のことをバカだと言った。「そんなバカな俺だから好いてくれる生徒もいるのかもな」そう、ミウラ先生に酔って話したらしい。その生徒がまさに私だと思った。

私はマツダ先生のことについてミウラ先生と話したいから公民も必死で勉強するようになった。ミウラ先生は、私が一つ問題を解決すると、マツダ先生の昔話をしてくれた。私はマツダ先生の話を聞くだけで楽しかった。
ふと、マツダ先生の家族の話になった。マツダ先生に娘がいることは知っていた。
「そういえばマツダ先生の娘さんの名前ってなんていうんです?」
と私は尋ねた。


ミウラ先生はふと考えそして思い出したように笑った。

ミウラ先生は私の名前を言った。

マツダ先生の娘と私は同じ名前だった。




私はマツダ先生のことが好きだった。たまにだけど、もっと早く生まれて先生と出会ってたらどうなってたんだろうなと思うこともあった。人と付き合ったことがなく、同世代の異性と話すのがそんなに得意ではなかった私は、恋愛経験が乏しかった。先生のことが好きだったのは、「人」としてだったのだろうか。「男」としてだったのだろうか。



「先生」は「先生」としか称することはできない。






「ぶざまに生きろ」




マツダ先生が私にくれた言葉で、一番覚えている言葉だ。
いつものように職員室の前の机で国語の問題を解いた後に、なんらかの話をして、唐突にそんなことを言われた。


「え?なに、どうしたの?」って聞いたら


「あんまりカッコよく生きようとすんなよ。ぶざまでいいから前に進めばいい。」


って言われた。よく意味が分からなかった。しばらくすると先生は、「こんなこと普通は女の子に言わないけどな。」って笑ってた。




高校を卒業して、マツダ先生とは連絡を取っていない。
先生は元気だろうか。
娘の名前呼ぶとき、一瞬でもアホな顔した私のこと思い出すといいな。












っていう小説を考えてみました。作り話にしてはよく出来てるなあ。


そういうことにしとこう。うん。