リハビリ人生

知り合いに「アケスケなブログ」って言われました。あけみって名前のスケバン?って思ってたら赤裸々って意味でした。

頼むから死んでくれバレンタインデイ

私たちはイベントに踊らされすぎている。


明日はバレンタインデイである。
バレンタインデーの由来はわざわざここで語ることを避けるが、まあようするに想い人に対し気持ちをチョコに込めてプレゼントするというようなイベントである。チョコには種類があって、本当の好きな人にあげる本命チョコ、お世話になっている人に渡す義理チョコ、同性とか異性とか関係なく友達にあげる友チョコなどがある。

うるせーよ馬鹿!!!!!!
こうやって説明してるだけで怒りがとまらん。友チョコなどがある(キリッ)じゃないんだよ。メガネをクイッとするな!!
なんでチョコを渡すっていう行為にそこまで意味を与えられないといけないのよ。お菓子を人に渡すなんてさ、「あ、このまえ本貸してくれてありがとね。これお礼のチョコ」くらいの感覚でいいじゃん。なんか、強制的に「想いを伝えよう」っていう機会を与えられているのが息苦しくってしゃーないわ!!クソが!!

チョコ買ったりするのもさ~~~なんかこう買った瞬間に「バレンタインデーにチョコを買った奴」っていう認識が店員から生まれるわけじゃん。「あ、こいつ誰かにこれ作って渡すんだな」みたいなこと思われるわけじゃん。

いや、「誰もお前のことなんてそこまで気にしてねえよブス!貧乳!」って思うだろうけどさ。
ちがうんだって…なんかチョコ買ってる自分っていうのを俯瞰で見たらその状況自体が耐えられなくなっちゃうんです。


クリスマスにしろバレンタインにしろ、過ごし方を気にしなくちゃいけないのが嫌なのだ。

恋人がいたら、「一緒に過ごす」っていう過ごし方を強制させられて、全国何万ペアいるカップルとほぼ同じタイミングに愛を言葉や行為で確かめあったりするでしょ。なんでだよ、「好き」くらい自分の言いたいタイミングで言わせてくれよ。本来そういうもんでしょ。

恋人いなかったらいなかったで、「くりぼっち(クリスマスに一人という意)な俺!!!!!!!」っていうことをどっかで自虐的に感じながら、あえての過ごし方を考えなくちゃいけない感じがする。そしてそれを受け入れて逆に楽しくなってる感じも踊らされてる感が否めない。

気にしないなら気にしないで、「そういうイベントとかさ…どうでもよくない?普通に過ごそうよ」っていうのをアピールしながら過ごさないといけない。なんかそれもそれでダサくない?「イベントを冷めた目で見てる俺」っていうの、寒くない?

もうだから何やってもどう過ごしても自分をダセエと思わざるを得なくなっちゃうのがバレンタインとかクリスマスなんです。わたしは「やりたい生き方を選ぶ」というよりも、「やりたくない生き方をしないようにする」という人生を生きているので、そういう「今何をしたらダサいか」という自分ルールに縛られて、日々が生きづらいんだよ。うん、君の言いたいことわかるよ。全部私のせいだね。そうだね。


私のバレンタインといえば、鹿のフンにしか見えない生チョコができたり、よく言えばおはぎ悪く言えばうんこにしか見えない生チョコができたり、もうとにかく何作ってもうんこみたいなものを異性に渡すしかないって感じです。
昔付き合ってた人にケーキもどきみたいなの作って渡したら、底にサプライズで入れていたitunesカード5000円分の方を死ぬほど喜ばれたりとかそんな思い出しかない。
それ見て「このひとすっごい素直だな」と思った。めちゃんこキレたけど。「嘘でもケーキのほうが嬉しいって言えや!!!」ってめちゃんこキレたけど。

わかる?これが本物の価値よ。何時間も苦労して作ったケーキ<5分で買ったitunesカードよ。

何作ってもウンコにしかならない私はおいとくにしても、素人が作ったチョコなんて大しておいしくないに決まってるのに、「おいしいね!ありがとう!」って強制的に言わされる男性はかわいそうじゃない?それが愛ってやつなんだろうけどさあ、なんだろうな、愛を強制させすぎじゃない?


まあ、バレンタインのおかげで好きな人に想いを伝えられた人とか、今まさに明日に夢見ている人とかもいるわけだから、私の気持ちが全国の人の総意とは思わない。純粋にがんばって恋を実らせてほしいと思う。
ただ私は疲れたのだ。頼むから死んでくれバレンタインデイ。


まあでもそんなこと言ってる私、いまだに初恋の人にホワイトデーのお返しでもらったダースの空箱実家の勉強机の引き出しの奥にしまってます。


きっつ〜

相対性理論の「地獄先生」に感化されている。

学校の先生とは不思議な人種である。




家族とも友達とも違うが距離感がとても近い位置に属している。小学校から高校生において、学校という閉鎖空間に閉じ込められて生活を送る私たちは「身近な大人とは」と問われれば、先生と答えるだろう。私たちは、先生を見て大きくなり、先生を見て大人になっていく。ほかに称することはできない。「先生」は「先生」としか言えないだろう。




高校の先生に忘れられない人がいる。マツダ先生とする。




マツダ先生は大きい。身長180センチで体格もいい。俳優の田中哲司にそっくりな見た目をしている。国語の先生で、ボソボソとした喋り方をして授業中に急に「太陽に吠えろ」のシーンを持ち出して「え…誰もわからないのか」と30近く年の離れた私たちにジェネレーションギャップを今更感じて、ショックを受けていたりする。肝心の国語の授業はボソボソと喋るから結構寝てる人が多かった。


高2のときに担任の先生になって、毎日マツダ先生と会うようになった。マツダ先生は接してみると結構ぶっきらぼうで、懐いてくる生徒には「寄るな寄るな」とあえて冷たく接していた。でもぶっきらぼうみたいに見えて先生は案外面倒見が良かった。文化祭とかになったら、いつまでも教室に残って誰も頼んでないのに難しい制作物を自分の工具を持ち出して作ってたりしてた。そんなことしてる先生、ほかに誰もいなかった。少し変な人だった。でも、優しさに溢れた人だった。




私はそんなマツダ先生のことが好きだった。




「先生のことは好きになってはいけません」となんとなくどっかで聞いたことがあったし、マツダ先生は私と同い年くらいの娘もいた。だからこの想いを「恋」と名付けたらダメなんだろうなあと思いながら、好きという感情をずっと持ち続けていた。




先生のことを目で追っかけるようになった。職員室の中でも結構偉い立ち位置にいるはずなのに先生はいつもその大きな体をへこへこしていた。つくづく不思議な人だな~と思う。私は先生のことがもっと知りたかった。
私は先生にうっとうしがられるくらい先生を見かけるたび追いかけるようになった。


一時、先生の後ろを付け回して先生のお尻のポケットのボタンをはずすという遊びが自分の中で流行った。どう考えてもアウトだ。先生は「やめろ!」って少し笑いながら「オッサンのお尻なんか触って何が楽しいんだ」って呆れていた。私は変なことをして呆れられるのが好きな特殊な性癖を持っているため、めちゃくちゃテンションが上がった。


先生に会いたいから国語をたくさん勉強した。塾に通っていないため、学校で渡されるワーク以外の教材がなかった私は、教科書の指定されていない問題まで解いて答え合わせをしてもらいに先生に会いに行った。昼休憩に先生を捕まえて先生と問題を解いている時間は、私と先生だけに与えられた時間だと思った。


先生はよく咳をする人だった。風邪とかではなくおそらく喘息持ちだったと思う。激しい咳をするたびに私は見ていられなくなった。咳は、先生と私の年齢の差を突き付けているように思えた。先生に何かをあげたかった。咳が止まるような何かを。そこで私はバレンタインデーというチャンスを見つけた。基本的にお菓子を持ってくるのは禁止だが、バレンタインは先生も生徒からチョコをもらうことがあるため、先生は全員見て見ぬふりをしていた。

マツダ先生は結構女子から人気だったため、チョコをたくさんもらっていた。
私は先生が一人になったときを見計らって、チョコの代わりにのど飴をあげた。
「先生いっつも咳してるからさ!チョコよりいいかと思って、はは」
なんだか恥ずかしくて大した会話もせず、驚いた先生からの「ありがとな」を聞いたら私はその場から逃げるように去った。
後から他の国語の仲良かった先生に、どんな反応をしていたのか聞くことができた。

「バレンタインだからってチョコを許すの俺どうかと思うんだよな~、あ、でものど飴は別かな。実用的だからな。」

先生は笑いながら職員室でそんなことを言ってたらしい。
ガッツポーズである。私は先生のことを分かっている!他の女子とは違う!と自慢げに思った。


私があまりにもマツダ先生を追いかけているあまり、その噂はなぜか社会科にも広まっていた。社会科の先生たちは、私が悪い点をとったら「マツダ先生に怒られるぞ~」と茶化してきたりしていた。社会科の先生の中に、古くからマツダ先生をよく知っているミウラ先生という男の先生がいた。ミウラ先生は「俺もあのひと大好きなんだよ…あんなカッコイイ人いないよ」とかみしめるように言った。ミウラ先生は、同僚の視点から見たマツダ先生の魅力を語ってくれた。
マツダ先生は自分のことをバカだと言った。「そんなバカな俺だから好いてくれる生徒もいるのかもな」そう、ミウラ先生に酔って話したらしい。その生徒がまさに私だと思った。

私はマツダ先生のことについてミウラ先生と話したいから公民も必死で勉強するようになった。ミウラ先生は、私が一つ問題を解決すると、マツダ先生の昔話をしてくれた。私はマツダ先生の話を聞くだけで楽しかった。
ふと、マツダ先生の家族の話になった。マツダ先生に娘がいることは知っていた。
「そういえばマツダ先生の娘さんの名前ってなんていうんです?」
と私は尋ねた。


ミウラ先生はふと考えそして思い出したように笑った。

ミウラ先生は私の名前を言った。

マツダ先生の娘と私は同じ名前だった。




私はマツダ先生のことが好きだった。たまにだけど、もっと早く生まれて先生と出会ってたらどうなってたんだろうなと思うこともあった。人と付き合ったことがなく、同世代の異性と話すのがそんなに得意ではなかった私は、恋愛経験が乏しかった。先生のことが好きだったのは、「人」としてだったのだろうか。「男」としてだったのだろうか。



「先生」は「先生」としか称することはできない。






「ぶざまに生きろ」




マツダ先生が私にくれた言葉で、一番覚えている言葉だ。
いつものように職員室の前の机で国語の問題を解いた後に、なんらかの話をして、唐突にそんなことを言われた。


「え?なに、どうしたの?」って聞いたら


「あんまりカッコよく生きようとすんなよ。ぶざまでいいから前に進めばいい。」


って言われた。よく意味が分からなかった。しばらくすると先生は、「こんなこと普通は女の子に言わないけどな。」って笑ってた。




高校を卒業して、マツダ先生とは連絡を取っていない。
先生は元気だろうか。
娘の名前呼ぶとき、一瞬でもアホな顔した私のこと思い出すといいな。












っていう小説を考えてみました。作り話にしてはよく出来てるなあ。


そういうことにしとこう。うん。

しゃらくせぇ話

隣の芝生は青い。めちゃめちゃ青く見える。




女の子は可愛い。




可愛い女の子になりたいと思う瞬間がある。
髪の毛がフワフワしてていい匂いがして、人が言ったことに大してハニカんだり微笑んだりして、その場にいるだけで場が和やかになれるような人。可愛い。



友達にそういう子がいる。
下ネタを周りが言っていると、分からなさそうにしていて、隣の人あたりがそれを耳打ちすると照れながらも「ふふふ」って少し笑っている。

私はというとその照れて笑う姿が見たいから下ネタを率先して言う側の人間だ。よくアクセルを踏み過ぎて度を超えた下ネタを言って、全員がドン引きしているのを見て、よく興奮してる。
「うわぁ・・・!ドン引きされてる!(ドキドキワクワク)」ってなる。



そんな奴可愛いか?可愛くない。



私の性癖の話は置いておいて、私が好きなその子は可愛いだけじゃなくて人としての芯を持っている。話を聞くのがうまくて共感をちゃんとするんだけどその中で自分の芯をちゃんと持ってるから、流されない。頑固さがある。



なんて素敵で魅力的な人だろうって、思う。



なんで隣の芝生、こと隣の可愛い女の子がこんなに可愛く見えるんだろうと思う。


自分にないものを持っているからだろうと思う。


自分に欠けているものはいくらでも挙げることが出来る。ガサツ、料理が下手くそ、部屋を片付けるのもへた、運動ができない、男勝り、上から目線で可愛くない、挙げていったらキリがない。


ダメだダメだ。人としてダメだ。女としてダメだ。可愛くなりてぇよ〜〜〜〜〜あの子みたいになりてぇよ〜〜〜〜〜という欲が急に溢れてきて先日、仲のいい先輩に酔って「いい女になりたいんれす〜〜〜」ってゲボヅラさげて泣きついた。めんどくさい。私が先輩だったら水ぶっかける所だけど、先輩には踏みとどまってもらえて良かった。風邪ひかなくて済んだ。


いつもはおちゃらけてるんだけど急にマジレスしてくることでお馴染みのその先輩はお水の代わりに私に言葉をぶっかけてくれた。


「いい女になりたいよ〜とかって言ってるうちはいい女じゃないでしょ。まず自分に持ってるものを自覚しなよ。」



はてなマークが浮かぶ。
先輩はテストの点数に置き換えて説明してきた。
「君の数学の点数が50点だったとする。国語の点数は80点。頭が良くなりたい!と思って数学を勉強して50点から80点になったとしてさ、周りはどう思う?また、数学の50点を80点にするのと国語の80点を100点にするのどっちが近道だと思う?数学を80点にした時より、国語を100点にした時の方が周りからの評価は分かりやすいものになるだろうね。」


数字がたくさん飛び交っていてかなり酔っていた私は「マジレスしてんなぁ」とか思いながら、ボーーっと先輩の言葉を追いかけていた。私は国語が好きだった。なるほど「国語が得意な人」として人から認識されることは確かに心地よいかもしれない。


「ないものを自覚するのは簡単だと思う。だからこそ、自分が持ってるものを自覚してそれを伸ばした方がいいよ。それが魅力的な人になる近道でしょ。」


もっともすぎる正論で私はグラス握ったままなんにも言えなくなってしまった。
この野郎正論言いやがって〜〜〜〜!!!!!!!!!!正しいことだけがすべてじゃないんだぞ〜〜〜!!!!!キーーーーッ!!!って感じだったが、ないものねだりの私には必要な言葉だった。


自分にないものをあげるのは簡単だ。
でも自分にあるものを挙げていくのは急に言葉が詰まってしまう。自分のことを私はなーんにも分かっていないのかもしれない。



「どうやったって自分は自分にしかなれない」
という現実は私に、絶望と希望を与えてくれる。どう受け取るかは自分次第だろう。



芝生は青い。



どこまでも青く広がっている。



先輩のたとえ話は分かりにくかったから、今度もっと分かりやすいたとえを用意して、同じ話をあの子にしてみよ。



ほんでまた「ふふ」って笑ってもらお。

猫の瞳

猫の目にはこの世界がどのように映っているのだろう。 長年の疑問である。 私の家には小さい時から飼っている猫がいる。猫のアニメのノンタンが好きだったため、幼い私と姉にのんたんと名付けられた。 表し難い柄模様のずんぐりと太った体格をした猫だ。 のんたんはふてぶてしいオーラをまとっている割に、瞳がとても綺麗だ。 大きくて金色に光るその目はずっと見ていると吸い込まれそうになる。 人でもそれぞれ瞳の色が違っている。 欧米の人なんかに見られるブルーアイを見て子供心に「世界が青色に見えているのかなあ」と思ったこともある。その理論が本当ならば私たちは世界が黒や茶色に見えている訳だから、間違っていて良かったと今では頷くばかりである。 しかしどうやらブルーアイと私たちの目の見え方が違うことは科学的に証明されているらしい。眩しいと感じる光の量が違うんだとかなんとか。 まあでも今回言いたいのはそのような科学的だったりすることではない。 猫とおしゃべりがしたい。不思議なことがたくさんある。 興奮して金色の目の中の一筋の黒い線が丸くなり黒い円が瞳を埋め尽くす時、目の前の世界は変わって見えるんですか? 何も無い所をずーっと見続けているのは、何かがそこにいるからなんですか?それとも何もいないからそこを見つめ続けているんですか? たくさんの気になることがある。猫は得体が知れない。 興味を持ちすぎて小学生の時、のんたんの視界に入り続けようとして、至近距離で見つめ続け、顔を背ける度にまた視界に入るという遊びをしていたら、「やめろ」と言わんばかりに、猫パンチの鉄槌がくだった。 猫は目の前の存在にヒエラルキーを決めていると思う。階級制度だ。 階級のてっぺんがうちの母。しつけを全て母が行っているからなのだろうか、うまく手懐けられて夜はいつも一緒に布団で寝ている。 その次が姉。ご飯をくれるから。これに間違いない。 次が私。ガキ扱いをした目で見てくる。 最後が父。のんたんはオスだからなのか同姓を嫌い、下に見ている。 のんたんは私が何を言っても言うことを聞いてくれない。寝る時とか来て欲しい時に来てくれなくて、勉強の時とか来なくてもいい時に寄ってくる。 彼の目には私がどう映っているのだろう。 小学生の時、親から叱られて泣いていたことがあった。何で叱られたのかは覚えていないが、ひどく泣いた。家の二階の誰もいない部屋の隅っこでひたすら泣いた。誰もが自分を認めてくれていない。誰も味方がいない。そんなふうに全てに悲観的になって、涙が止まらなかったことだけは覚えている。 部屋の扉があいた。 誰かと思ったらのんたんだった。 のんたんは部屋の扉を簡単に開ける猫だった。 のんたんは私の近くに来て私の横に座って私をじっと見ていた。鳴かなかった。見ているだけだった。 私はいたたまれなかった。どうして見ているのかと思った。 「元気づけてくれてるの?」 もちろん返答はなかった。 彼の目にはわたしがどう映っていたのだろう。 小さな私。親に怒られたくらいで大泣きしている小さな私。 そして私も大人になった。実家にはしばらく帰ってない。今度帰ったらのんたんとおしゃべりがしたい。「私変わった?」って。 きっとまた猫パンチされるだけなんだけど。

恥ずかしい過去を供養しよう

生きていたら誰にだって供養したくなる過去がある。

 

中学時代、文芸部に所属していた。

 

小説や詩などを書いて月に1回製本していた。

中二病という言葉。

思春期にありがちな背伸びしがちな行動だったり、今では恥ずかしい思い出を揶揄して言うことである。

特にその多感な時期に感じたことを言葉に残そうとしてノートいっぱいにポエムや小説を書いていた人にはわかってもらえるだろうが、それらを振り返るということは実に赤面極まりない事態である。

 

もう一度言おう。私は文芸部に所属していた。

その黒歴史と今では呼べる稚拙極まりない調子こいたポエムとも呼べない言葉の数々を私は製本して全校生徒の目に付く所に置いて晒し上げにしていたわけである。恐怖にも程がある。

 

文芸部の存在や過去を否定している訳ではない。毎月自分たちで決めた締め切りに追われ、勉強の合間に原稿を書いていたあの頃は本当に充実していた気がする。だからこそ、私はあの頃の私を許し、抱きしめ、供養してあげたいなと思うのだ。「私の言葉って・・・割とイカしてない?」って思っていたクソやばいあの頃の私を。

 

と、いうわけで今思い出せるクソヤバイ自分の作品を紹介&レビューし、ネットの海に晒すことで自分の作品を供養してやろうと思う。さようなら我が子たち。お前のことを可愛がってくれるすんごい感性の持ち主がこの世のどこかにいるはずさ。だってこの世はとんでもなく広いんだもの。 というわけで、今回紹介する作品は2つの小説作品。

 

 

 

エントリーNo.1

『ねずみ年の男』

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(あらすじ)始まりは主人公の香織の家のポストの中に入っていた一通の手紙。「ずっと好きでした。ねずみ年の男より」そこから香織とねずみ年の男との奇妙な文通はスタートし、香織は徐々に手紙の主に惹かれていくが、香織は両親の仕事の都合で家の引越しが決まってしまう。文通はどうなる!?そして結局ねずみ年の男とは何者なのか!?そして何歳なのか・・・

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ストーカーじゃん。

 

 

こわい。なんで香織は徐々に惹かれるの?そんな得体の知れない奴に惹かれる要素なんてある?アッサリ文通スタートしちゃってんじゃないよ。とりあえず展開を進めるために作者に強引に感情を動かされたんだろうけどさ、それにしても危機管理能力がなくない?

 

確か最後にこれねずみ年の男からプロポーズされてアッサリ香織OKするし。 やっば。 ダメだ。香織もう完全に舞い上がっちゃってるわ。

そんな一時の感情で人生のパートナーって決めていいもんじゃないだろ。 香織絶対モテないわ。男日照りが増していきすぎて、近寄ってきた身近な男にアッサリついていっちゃったんだわ。 勢いでOKしちゃったからとりあえず同棲から始めてみるんだけど、素性知らないまま付き合ってるから、根本的に合わない部分がたくさん出てくるの。 文通から始まったっていう運命っぽいところだけを輝かしい2人の過去として切り取って香織は、憂鬱が立ち込める部屋で暮らしていくのでしょう。 お幸せに。 私はもう知らん。

あとねずみ年にする必要ってあったの?

 

 

 

〇自評〇

ご都合主義感・・・☆☆☆☆☆

ゼクシィをもっと読め・・・☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

エントリーNo.2

『鯉のぼり』

 

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(あらすじ)

そこはある庭の池の中。今日も鯉たちは楽しそうに泳いでいる。「委員長」と皆から呼ばれている鯉はしっかり者でいつも皆のまとめ役。そんな委員長は最近は外の世界の「空」に興味津々。委員長は空見たさに池からの脱出を企てる。皆、委員長を馬鹿にしたが、脱出が成功し、いなくなった委員長を思い、自分たちも空を見に行くことを決心し、池からの脱出をはかる。そして池から出た後、待っていたものは委員長、そして空、そしてなんだったのかーーーーー

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待ち受けてるもの?

 

「死」じゃん。え?「死」じゃん。

 

 

 

 

委員長とかあだ名つけたり擬人化させてコミカルに話が運んでいく割に、結局最後全員死ぬってそんな展開の触れ幅ある?情景としてはただただ鯉が打ち上げられて謎の全滅を遂げてるってなに?あまりにもむごくない?

鯉が可哀想だとかその前にニコニコこれを書いてるお前大丈夫か。なあ。中学生の時、家で金魚飼ってて、水槽の中をふよふよ泳いでるの眺めるのが好きで、気がつくとめちゃめちゃ時間が経っていたという記憶がある。それなのに庭の鯉が揃いも揃って打ち上げられて口パクパクいわせながら全滅してる話書いてるお前。大丈夫なの?友達がいるいない前提に、何かしらの破壊衝動を持ってる傾向ない?

私がこの小説添削する教師だったら、書いた子の精神状況を疑う。そんで、 製本を止める。たのむ。止めてやってくれ。

 

 

あと小説の最後の1文だけ覚えてるんだけどこれです。

 

 

 

 

────鯉はその空に恋をした。────

 

 

はあ 

恋と、鯉ですか。ははっこりゃまた一本取られましたな!恋して舞い上がっちゃってるわけですな!?題名の鯉のぼり!だけに! 

 

もういい加減にしてくれ。 

 

 

 

〇自評〇

サイコパス度・・・☆☆☆☆☆

この原稿をスルーした文芸部顧問の責任・・・☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

思い出せるものが少なかったのでとりあえずそんな感じ。自分で思い出しながら色々な方向から槍をぐさぐさと突き刺された感覚を覚えた。

 

これを製本して職員室の前に積み上げてたってとんでもない事実だ。まあそんな取っていく人いなかったんだけど。それは、まあ。うん。言わないでやってよ。学校のカーストにおける文芸部の立場とかさ、うん。言わないでやってくれよ。

あと、「昔をヤバイヤバイって言ってるけど、それを今更血反吐はきながら自分で掘り返して、ネットの海に流そうとするお前が一番やばいよ」っていうもっともすぎるご意見は承ってないです。

 

当時の私。友達もそこまで多い方じゃなくて、妙な自意識のせいで異性と話すのは抵抗感があった。だからこそ自分の世界をたくさん生み出して、自己満足に浸ってニヤニヤしていた中学生の私。一言で片づけると「痛い」。それでもやっぱりそんな自分も今の自分を構成する一部だから受け入れてやろうじゃないか。

 

まあ結論じみたことを言わせてもらうと、今でもあの時のポエムを読んでたまに「アリだな」って思う今の自分(成人済)がやっぱり一番クソヤバイ。

 

過去を受け入れて楽しい人生を。